第三百五十夜 高浜年尾の「霧」の句

 高浜年尾は虚子の長男である。虚子は、2男6女という子沢山で、しかも子煩悩でつとに有名である。
 大正9年、年尾が小樽商業高校に在学していたとき、丹毒で高熱を出した年尾の看病に駆けつけたことがあった。
 次女の星野立子は著書『俳小屋』の中で、父虚子のことをこうも書いている。「父は子供等にやさしい父であった。私はまだ父に叱られたという事を知らなかった。病気をすると看病してくれるのは父であると思いこんでさえいた。」と。
 多くの家庭では母親が一手に引き受ける子育てを、明治時代の虚子はしていたのだ。
 その虚子の息子である年尾俳句に、私は、これまでになかった心で入り込んでゆくことができた。
 
 今宵は、高浜年尾の俳句世界を見てゆこう。

  襲ひ来しはじめの霧の匂ひけり  『秀句三五〇選 香』

 ドライブで行く蔵王や霧ヶ峰などで、あっと思う間もなく襲い来る霧に出合うことがある。突然のようにわが身を囲んでしまった霧を、年尾氏は「はじめの霧の匂ひけり」と捉えた。
 的確な描写でありながら、なんと静かな美しい光景として表現したのであろう。この丁寧な描写によって、とらえどころのない霧そのものを現すことが出来たのかもしれない。虚子の教える「客観描写」の、焦点の絞り方の素晴らしさを見せてくれた作品であると思った。
 
  虫を聞く心に何のかげりなく  『ホトトギス新歳時記』

 人はたいていの場合、ああ、今宵も虫が鳴いているなあ、秋だなあ、と、漠然と耳にしているのではないだろうか。
 だが年尾氏の作品は、季題の「虫を聞く」だけで言い尽くしているのような気がした。「心に何のかげりなく」の措辞から、虫を聞いている人、すなわち年尾氏の、穏やかな心のありようが深々と見えてくるからだ。
 
  天の川富士の姿は夜もあり  『ホトトギス新歳時記』

 下五の「夜もあり」には驚いた。富士山が夜もあるのは、誰もが当然のことと思っているから、敢えてそう詠む人はいなかったのだろう。
 俳句は、よく見て、よーく見て、発見することが大事だという。その発見したことを、年尾氏のように、あたりまえ過ぎると思われる言葉で俳句に詠むことができたことが凄い。発見とは、決してシュールな言葉ではなく、激しい言葉でなくてもいい、と教えてくれる作品である。

  この頃の暮らしが映り金魚玉  『年尾句集』

 「金魚玉」といえば、私は、波多野爽波の〈金魚玉とり落としなば舗道の花〉の幻視が好きである。波多野爽波は、「写生の世界は自由闊達の世界である」と言い、「俳句スポーツ説」と称えるほど写生をした人である。

 句意はこうであろう。家の中に金魚玉が置かれている。吊るしてあってもいい。金魚が泳いでいる金魚玉の水は、室内を行き来するもの全てを映している。遊んでいる子ども、忙しい奥さん、金魚に挨拶をしてゆく年尾氏、猫や犬も動くたびに映っている。
 平明な写生句を詠むと言われることのある年尾俳句だが、一瞬を詠んでいるのではなく、もっと深い「普遍的なまこと」を感じさせてくれる。
 年尾氏の「金魚玉」には、金魚玉そのものに存在感があると感じた。

 高浜年尾(たかはま・としお)は、明治33年(1900)-昭和54年(1979)、東京神田猿楽町に生まれる。高浜虚子の長男。「年尾」は正岡子規の命名。小樽商業高等学校(現小樽商科大学)卒。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始める。昭和13年、「俳諧」を発行して連句を始める。昭和14年より再び俳句に専念する。
 昭和25年に父虚子が脳梗塞となり、昭和26年3月号より「ホトトギス」雑詠選者となり、昭和34年の虚子没後、朝日俳壇および愛媛俳壇選者となる。昭和54年、年尾の死後「ホトトギス」は次女稲畑汀子に引き継がれた。句集は『年尾句集』、著書『俳諧手引』ほか。