第三百五十二夜 荒木田守武の「落花」の句

 荒木田守武は山崎宗鑑とともに、戦国時代に松尾芭蕉に先立って俳諧の始祖と呼ばれていた。俳諧とは、もともとの連歌にはなかった卑俗的で滑稽を詠むために生まれたものが「俳諧連歌」であり、略して「俳諧」と呼んだもの。
 俳諧連歌の1番目の発句を「俳句」と呼ぶようになったのは、明治時代になって正岡子規が、文芸として1句で立つものにしたいと俳句革新したものである。
 
 今宵は、荒木田守武の作品と高浜虚子の「守武忌」の作品を見てみよう。

  落花枝に帰ると見れば胡蝶かな  『守武千句』
 (らっかえだに かえるとみれば こちょうかな)
 
 花吹雪の季節には、誰もがこうした光景に気づくかもしれない。風のある日など、花びらがふわっと舞い上がり、まるで落ちた花びらが枝に舞い戻っていくように感じる。よく見ると蝶であったというユーモアの句であるが、「胡蝶」と詠んだところが優雅で上品な源氏物語の世界を思わせてくれる。【落花・春】
 
 荒木田守武(あらきだ・もりたけ、文明5年(1473年)- 天文18年(1549)は、戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。守武の考える俳諧を述べた次の言葉は、まさに俳諧の始祖と呼ばれるに相応しい論である。
 「はいかいとて、みだりにし、わらはせんと斗(ばかり)はいかん。花実をそなへ、風流にして、しかも一句たゞしく、さてをかしくあらんやうに、世々の好士(こうし=すぐれた人)のをしへ也。」(『守武千句』の跋文より)

  祖を守り俳諧を守り守武忌  虚子『五百五十句』
 (おやをもり はいかいをもり もりたけき)

 掲句は、前書に「昭和14年7月1日 朝日新聞の需めにより。開戦記念日を迎ふ。」とある。虚子は、『虚子五句集』の掲載した作品だけでなく、その日に詠んだ作品は『句日記』に残している。1つのことがあらゆる角度から詠まれているので、虚子の当日の気持ちがよりはっきり伝わってくる。
 なるべく、原稿にするときには合わせて読んでおこうと思っている。

  祖を守り俳諧を守り守武忌
  梅雨も亦神慮のまゝや晴れずとも
  夏海を越えし和寇(わこう)の子孫我
  傷兵に逢はゞ夏帽を取れとこそ
  老も亦捧ぐる汗の一雫

 3句目、前書に開戦記念日とあるので、日中戦争があった頃とまでは思い出すが、それ以前の中国や朝鮮との諍いは忘れてしまっている。
 倭寇(わこう)とは和寇と表記される場合もあるが、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の中国・朝鮮側の呼称である。
 虚子は、13世紀に起きた中国からの攻撃「元寇(げんこう)」は、それ以前に日本側の「和寇(わこう)」という海賊が中国や朝鮮を攻めていたという歴史を、ちゃんと覚えていて作品にしている。
 句意は、その昔、夏海を越えて略奪をしに行った海賊「和寇」の、私は子孫の一人でしたよ、となろうか。
 そうした5句の第1句目が、〈祖を守り俳諧を守り守武忌〉である。【守武忌・秋】
 
 私は、思い出していた。次の4句は、第二次世界大戦後の「昭和20年8月22日。詔勅を拝し奉りて。朝日新聞の需めに応じた作品である。
  秋蟬も泣き蓑虫の泣くのみぞ
  敵といふもの今はなし秋の月
  盂蘭盆会共勲(いさおし)を忘れじな
  黎明を思ひ軒端の秋簾見る

 もう一つ、思い出していた。新聞雑誌のインタビューで戦争が俳句に及ぼした影響を聞かれた際の、「俳句は何も影響を受けなかった。」と答えた虚子の言葉である。
 虚子は、俳句は伝統芸術であり、花鳥諷詠(四季の現象を花鳥の二字で代表する)詩である、と繰り返すばかりであった。
 過去に戦があろうと、よき日和ばかりではなくとも、老いゆこうとも、守るべきは俳句のことであると考える虚子の、揺らぐことのない基本の姿勢が見えてくる。