第三百五十三夜 能村登四郎の「枯野」の句

 能村登四郎は2度目の登場になるが、知的であり、どこかにこっとするユーモラスな面もあり、身体中に和歌という古典の調べが染み込んでいる良い作品に出会ったら、やはり何度でも紹介したくなる。
 秀句三五〇選シリーズの中でも、ほとんどの編者の先生方が選んでくださっている。
 
 今宵は、まず『秀句三五〇選 画』から見てみよう。

  芦ペンで描かれしかこの枯野の画 
 (あしぺんで かかれしかこの かれののえ) 

 芦の茎を切っ先鋭く尖らせてペンにする。その芦ペンで、この枯野の画を描いたのであろうか、という句意である。
 枯野を見てご覧なさい。枯芦の先は、わざわざナイフで鋭くしなくても、枯れきった芦は尖っているではないか。ペン先に絵具をつければシャープな線の枯野が描けたるではないか。
 
 私は思った。
 
 この枯野を描いた人は誰かしら。
  ――だあれも知らない。
 この画は実在する絵なのかしら。
  ――だあれも知らない。
 どこの国の絵描きさんが描いたのかしら。
  ――そんなこと、だれも知らないさ。
 どこかの美術館に飾ってあるのかしら。
  ――いや、どこにもないさ。
 
 でも、あなたは見ているのよ。
 目の前に、こんなに広がっているじゃない。
 この枯野を描いた人は、じゃあ、いったい誰なの。
  ――ボク思うんだけど、キミの心が描いた絵だろう。
  ――ボク思うんだけど、枯野って、本当にきれいだなあ。 【枯野・冬】
  
 次は、『秀句三五〇選 色』から見てみよう。

  斑がふえし秋や雀も蛤も
 (ふがふえしあきや すずめも はまぐりも)  

 「斑」とは、(ふ)とも(まだら)とも言い、数々の色が混じり合っているさまのこと。木々は紅葉黄葉と色を尽くしていて、そうした色の深さが秋の本質であり、斑である。
 雀の羽根は茶色の濃淡であり、蛤は茶色の貝に茶の濃淡の斑が入っている。雀の羽根の色と蛤の色は似通っていることから、「雀蛤となる」という季語は生まれている。9月の第二候、中国古代の天文学にもとづく七十二候による季語である。【秋・秋】
 
 もう1句、『秀句三五〇選 友』から見てみよう。
 
  敵手と食ふ血の厚肉と黒葡萄
 (てきしゅとくう ちのあつにくと くろぶどう)

 後に、「沖」の主宰となる能村登四郎と「鷹」の主宰となる藤田湘子は、水原秋桜子主宰の「馬酔木」の中の強力なライバル同士であったことは周知である。
 掲句の「敵手」は、登四郎にとっての俳句の好敵手の藤田湘子である。二人は、「馬酔木」の順位を争う間柄であったが、馬酔木賞は同時に受賞をしている。
 実際にこの豪華な食卓を二人が共にして、グラスを打ち合ったわけではないだろうが、互いの心中は戦士のごとく火花を散らしている。
 ライバル同士もまた、大切な「友」である。 【黒葡萄・秋】