第二十二夜 日野草城「ところてん」の句

  ところてん煙の如く沈み居り  日野草城

 句意は次のようであろうか。
「木製の心太突きで押し出されて清水桶にとぐろを巻いて収まっているところてん。曇りガラスのような色の物体は、もやもやしていて、まるで煙のようですよ。」

 日野草城(ひのそうじょう)は、明治三十四年(一九〇一)年東京上野の生まれ。父の仕事の関係で京城で過ごした草城は、大正七年の京大三高入学を機に京都住まいとなり、その八月に十八歳でホトトギス初入選をし、「京大三高俳句会」の中心的存在となる。この京都時代に、俳句の先輩としてまた同志として鈴木野風呂とはよく一緒に句を作った。
 幼少期を朝鮮で過ごして日本家庭の風習や食物に疎かった草城のために、野風呂夫人は白玉、冷奴、白酒、湯豆腐、心太(ところてん)などを作ってみせたという。この時も試食後に、いざ俳句を作りはじめると草城はたちどころに二十句ほど出来て、その一句が携句である。
 第一句集『花氷』の序で野風呂はこのエピソードに触れて、こう述べている。
「君の最も油の乗つて居たのは三高卒業前後で、力強い火の出るやうな生命がひそんでゐた」、「自己の魂をみがいたものでなければ、こんな澄み切つた句は生まれぬ」と。

 昭和六年には、水原秋桜子が虚子との写生観の相違から「自然の真と文芸上の真」を掲げてホトトギスを脱退。この秋桜子の行動が新興俳句運動の第一歩であり、昭和十年には、東では秋桜子の「馬酔木」が、西では草城の「旗艦」「京大俳句」が、新興俳句の拠点となっていた。
 順調にホトトギスで異彩を放つ才人として活躍していた草城は、第三句集『昨日の花』を昭和十年に刊行した。句集には「ミヤコ・ホテル」連作十句が収まっており、性を扱ったことだけでなく、連作、虚構、無季など多くの問題を孕んでいたことから、賛否両論が激しかった。
 こうして秋桜子に始まった新興俳句は、昭和十年のミヤコ・ホテル論争を契機として、秋桜子や誓子の有季定形派と、草城や三鬼や不死男や窓秋らの無季容認派とに別れることになった。

 虚子は、無季俳句に真っ向から反論することはなかったが、昭和十一年十月号の「ホトトギス」で突然に吉岡禅寺洞、杉田久女とともに草城の同人を除籍した。草城は、届いたホトトギスをのんびり読んでいて三十頁目を捲ったとき初めて同人除籍を知ったという。
「ホトトギス同人の資格は喪失したけれど、虚子先生が僕の師君であることには渝(かわ)りはない。」、「花鳥諷詠は一つの格である。既に格に入り、而して既に格を出づ。僕は十九年住みなれたホトトギスを立出で、寂しくも悠々たる心境に處してゐる。」と、草城は俳句新聞に「感慨――ホトトギス同人の籍を除かれしに際して――」と題してこのように書いた。
 草城の除籍の理由は「ミヤコ・ホテル」であったという。そして二十年近くが過ぎた昭和三十年一月号「ホトトギス」により同人復帰となった草城は、亡くなる一年前の昭和三十年五月二十三日、虚子先生を草舎(自宅をこう呼んだ)に迎えているが、草城にとって虚子は〈先生はふるさとの山風薫る〉と詠んだように、草城俳句の「ふるさとの山」であったのである。
 
 山本健吉が、草城を「極端な早熟型の、極端な晩成型」と評したが、そうだと思う。私は、初期の物の本質を捉えた斬新な作品が大好きだが、草城の十年に亘る闘病生活から得た、透徹した心境の第七句集『人生の午後』では平明な作品からは安らぎを共感することができた。
 草城俳句の世界に入り込んで好きな句を抽き出してみると、無季の句も選んでいた。だが草城が命をかけた作品とは、季題の呪縛からも解き放たれた十七文字だったのではないだろうかと、今ふっと思っている。
 次は、有季と無季の代表句である。

  切干やいのちの限り妻の恩  『人生の午後』
  右眼には見えざる妻を左眼にて  『人生の午後』