第二十三夜 中原道夫の「屏風」の句

  屏風絵の鷹が余白を窺へり  『蕩児』

 句意は次のようであろうか。
「屏風には一羽の鷹が描かれている。金屏風であっても銀屏風であってもよいが、鷹の目は、何も描かれていない屏風の一部に視線を向けている。まるでその先に獲物が居るかのように、余白を窺っていましたよ。」

 中原道夫(なかはらみちお)は、昭和二十六(一九五一)年新潟市の生まれ。道夫の句の特徴は、現代社会の「いま」を、ちょっと斜め下、あるときは斜め上から覗き見ていることがまず挙げられる。発想の感覚と表現には機知、洒落、洒脱さがある。その上、曖昧さのない措辞と切れのよいリズムには、うむを言わさず納得させられてしまう。
 有名なグラフィック・デザイナーという仕事柄もあるだろうが、古美術にも造詣が深い。仕事の作品を仕上げてゆく作業過程と、俳句の具象化として捉える作業と似ているのだろうか。「鷹が余白を窺う」など、描かれた作品そのものをずばりと叙しているのに、屏風絵の何も描かれていない金泥あるいは銀泥の余白の美しさなど、時間をかけて絵を眺め入るような味わいがある。
 作品は一見、作者が浮き彫りになる主観が強い句であるとも思えるが、読み込んでいるうちに、そうではない違うのではないか、と思えてきた。それは何なのだろうか。
 
 アメリカの黒人作家ラルフ・エリソンに『見えない人間』という書がある。主人公は黒人で、奴隷解放はされていて自由であるはずなのに、まだ、白人からは人間という存在としては見てもらえない非実存的な「見えない人間」である。
 作品を提示し、作品の力で勝負しているデザイナーとしての目、対象に食い入っている自分でありながら、作者自身を見せない「見えない人間」となっているその目が、中原道夫の<俳句の目>と言ってよいかもしれない。

 もう一句紹介しよう。
 
  初蝶は正餐に行くところなり
 
 第二句集『顱頂』中で一番好きな句である。昔、西欧では、少女がある年齢になると社交界へのデビューとしてパーティーへ招かれるようになる。最初は真っ白なドレスを着て、胸を高鳴らせて、どきどきして、おどおどして出掛けてゆく。新鮮である。道夫は「初蝶」からこんなイメージを得た。そこには「正餐」という美しい言葉が添えられた。