第三百五十七夜 高浜虚子の「薄紅葉」の句

 今朝も、ふれあい道路を守谷から隣駅の取手まで走ってパン屋に行った。美味しい店だからわざわざ行くのだが、15キロの道のりの3分の2は銀杏並木が続いていて、少しずつ黄葉が進んでいる。これが見たくて、私は、毎日のささやかな吟行にしているのだ。
 桜紅葉の頃もよく行った。この辺りで眺める初紅葉なのだが、桜紅葉は美しいというほどの時期はなく直ぐに散ってしまった。
 例えば、東京で見た大きな庭園の桜紅葉や、京都のお寺で見た紅葉は輝くばかりであった。11月末頃だったと思うが、驚くほどの美しさであった。さぞ手入れが良いのだろう。
 
 だが今朝、ああ、較べたりしてはいけないのかな、と車を走らせながら思った。遠くの紅葉や黄葉を追いかけるばかりでなく、どの木もそれぞれで、人間だったら運命というそれぞれの最高の時期がある。その木なりの紅葉、その子なりの頑張りを然と見つけてあげなくては・・。
 
 今宵は、薄紅葉と紅葉の作品をみてみよう。

  真青なる紅葉の端の薄紅葉  高浜虚子 『新歳時記』平井照敏編
  薄紅葉してしづかなる大樹かな  『ホトトギス新歳時記』

 薄紅葉は、紅葉しかかった葉のことで、充分に色がついていなくて、うっすらと色づいている状態のこと。
 1句目の、丁寧な描写、丁寧な客観描写とはこういうことか、と思わせてくれる措辞は、この句の文字を追う私たちの視線もまた、作者虚子の視線の動きにしたがって動いてゆく。
 この木は「紅葉(モミジ)」だと思った。モミジの端の方がほんのり色づき始めているのに気づいた瞬間を言い留めている。
 2句目、こちらは銀杏大樹であろう。おそらく全体が黄色くなっているが、まだ深々した黃色にはなっていない銀杏大樹であろう。
 中七の「しづかなる」が、黃色がもっと進むと黄の美しさのピークは過ぎ、やがて落葉がはじまる合図。黄の最も美しい少しの間、これが「しづかなる」だと思った。

  紅葉せるこの大木の男振り  高浜虚子 『ホトトギス新歳時記』

 この作品に『ホトトギス新歳時記』で出合った。公園にある大樹が好き、雑木林が好き、森も好きな私は、「大木」そのものに惚れることはある。つくば植物園に入るとメタセコイアの大木が100メートル近く並んでいる。抱きついても手が回らないほどの太さだ。これは「男振り」の大木の一つであろう。こうした発想はなかったので嬉しくなった。

  紅葉焚きし灰やしばらく火を含む  中村草田男 『新歳時記』平井照敏編

 焚火をして、火は消えて、灰ができた。最後に火が完全に消えたか確認するが、その時、草田男は白い灰ではなく、灰は焔の色をしていることに気づいた。それとも、赤い紅葉の色が灰にのこっている状態を「火を含む」と詠んだのであろうか。
 私は今思い出すのは、送火を片付けるときに見た、灰にあった火の色である。