第三百五十九夜 松本つや女の「夕顔」の句

 松本つや女は、ホトトギスで活躍した松本たかしの妻である。昭和4年、病み勝ちのたかしの看病のために鎌倉浄妙寺に住込み住込みの派遣看護師となりやがて二人は結婚する。
 私は、松本たかしの俳句が好きで、大分読んでいたと思ったが、妻を詠んだ俳句は見かけなかったような気がしていた。
 
 今宵は、みすず書房刊『現代俳句全集』の中で出合った松本つや女の作品を紹介してみよう。

  1・夕顔に病み臥す人と物語
 (ゆうかおに やみふすひとと ものがたり)
  2・膝ついて鉛筆削る春の風  
  3・鶯やすこやかなればうれしくて

 1句目、夕暮に咲く白い五弁の「夕顔」の花を、縁側越しに眺めながら、室内で病み伏しているたかしとつや女は、果てしなく語り合っている。
 つや女はたかしと暮らすようになってから俳句を始めていて、「ホトトギス」で虚子の選を受けているが、たかしは間近にいる一番の師でもあろう。
 2句目、俳句をノートに書き留めるばかりでなく、たかしは、俳論など原稿も書いていたから、鉛筆はつねに綺麗に削ったものを何本も揃えておかなくてはならない。「膝ついて」の姿勢がいい。すこし上から削るほうが具合がいいからだ。
 3句目、春の一刻、鉛筆を削るときも語らうときも、鶯が元気よく啼いてくれているのは何よりも嬉しいことなのだ。

  4・小鼓も形見の一つ梅雨じめり
  5・俳諧に牡丹忌一つ加はりし
  6・暑に耐ゆる精一杯の起居かな
  (しょにたゆる せいいっぱいの たちいかな)

 鎌倉浄明寺のたかし庵は、住いは2部屋であるが、庭は200坪という広さである。奥には小川が流れ、木々は多く草花も多い。ことに春の桜の時期は、見事な花見の宴をした。赤い絨毯を敷いた上で、たかしは小鼓を打ち、舞を舞ったという。もちろん、妻のつや女が主になって準備をして、句会と花見を盛大に催したのであった。
 4句目は、そうした折に用いた小鼓であろう。「梅雨じめり」の季題から、いつまでも消えることのない哀しみが伝わってくる。
 5句目、昭和31年5月11日、たかしは50歳で亡くなられた。師の高浜虚子は、「松本たかし死す」と前書し、〈牡丹の一弁落ちぬ俳諧史〉と詠んだ。「たかし忌」「牡丹忌」と、折々に、後の俳人たちは詠む。
 6句目、つや女が、戦後の昭和26年にたかしが創刊し亡くなるまで主宰をしていた俳誌の2代目の主宰として奮闘していた日々を詠んだものであろう。「精一杯の起居(たちい)」から、感じることができた。
 
 「そもそも盲腸炎であってみれば、私の看とり妻としての運命はすでにその時からはじまりました。たかしの病気を看とるべき宿命を負って生まれてきた私なのでしょう。」
 これは夫松本たかしを偲ぶ「新盆を迎へて」の中の一節である。(『現代俳句全集』より)

 松本つや女(まつもと・つやじょ)は、明治31年(1898)-昭和58年(1983)、岩手県矢巾町の曹洞宗高伝寺の次女として生まれる。本名高田つや。岩手病院看護婦養成所を卒業後、同所で看護婦として勤務。その後、鎌倉に移住し看護婦として働く。後に夫となる松本たかしとの出会いは、たかしが肺尖カタルから精神衰弱を病み、能役者の道を諦め、高浜虚子の下で俳句を始め、鎌倉浄妙寺に住むようになって以降のことである。昭和4年、住込みの派遣看護師として療養中のたかしの面倒を看るなかで妻となる。句集に『春蘭』がある。