第三百六十三夜 高浜虚子の「山茶花」の句

 椿が好きな私が、花の時期も重なっていて葉や花の形の似ている山茶花のことを知りたいと思うようになったのは、茨城県へ越してきてからであった。しばらくは東京まで車で往復して仕事をしていたが、ハイウェイを下りて家まで、40分ほど走る途中の景色に立ち止まっては眺めて俳句に詠んでいた。
 その一つが、農家をぐるりと囲んだ山茶花の垣根であった。山茶花の花の咲いている時期の驚くほど長いことも知った。花の散り方が椿とは全く異なっていることも知った。
 
 今宵は、今はもう咲き始めている山茶花の作品を見てみよう。
 
  山茶花の真白に紅を過まちし  高浜虚子 『七百五十句』
 (さざんかの ましろにべにを あやまちし)
  
 山茶花の花の色は、白、ピンク、濃いピンク、色がほんのり混ざっているものもある。
 掲句は、白山茶花だと眺めていたら、ちらっと赤が混じっていることに気づいたという句意である。
 「紅を過まちし」とは、造化の神様がちょっと手を滑らせてしまったのか、紅色が混ざっていたということであろう。詩的な発想である。昭和33年、虚子82歳の作である。
 
 山茶花は、咲いている花よりも「散る、散り積もる」光景に惹かれて詠むことが多いようである。
  
  1・山茶花の貝の如くに散りにけり  山口青邨 『雑草園』
  2・さざんくわの窮屈さうに散りはじむ  あらきみほ 「花鳥来」

 1句目、散る花びらである。椿と山茶花はよく似ているが散り方が違う。椿は花びらが繋がっているから花首から落ちるが、山茶花は花びらが1枚づつ離れて落ちる。
 青邨は「貝の如くに」と花びらの1枚を表現した。落ちたばかりの花びらは、ハートの形をしていてふっくらとしているから桜貝のようでもある。
 2句目、ある日公園で、八重咲きの山茶花を間近にまじまじと見ていたが、1つの花の花びらはぎゅうぎゅう詰め。落花はぎゅうぎゅう詰めが解けて散ってゆくのであった。
 「窮屈そう」の措辞に、「花鳥来」の深見けん二先生は褒めてくださった。
 
 山茶花は、散る瞬間ほどけて、地上に散り敷かれて、貝のごとくに又ハートの形をしていて、何だか幸せそうに見えた。どの歳時記の例句も多くが「散る」の文字が入っていた。

  3・山茶花の散るにまかせて晴れ渡り  永井龍男 『蝸牛新季寄せ』
  4・山茶花の散りしく月夜つづきけり  山口青邨 『冬青空』
  5・霜を掃き山茶花を掃く許りかな  高浜虚子 『新歳時記』平井照敏編

 3句目、4句目、昼間も月夜も散っている姿も、散り敷かれた絨毯も美しい。
 5句目、だが、花びらも枯れると塵である。毎日咲いて毎日掃いて、山茶花の垣根のある家は忙しい。
 
 山茶花の高垣は、茨城県で初めて見たのだが、関東平野のど真ん中の茨城県は稲作の地である。その真中に建つ農家は、防風林として山茶花を植えたのであろう。風を防ぎ、しかも花期も長いので美しい高垣となる。
 この地へ越してきて数年後に〈高垣の白山茶花の奥に老ゆ みほ〉と詠んだ。
 最近のコロナ禍の日々の中で〈コロナ禍や白さざんかの垣高し みほ〉と詠んでみた。