第三百六十七夜 春日愚良子の「花心」の句

 もう10年以上も前になるが、高遠城址公園の桜の満開の頃に出かけた。コヒガンザクラの赤みがかった桃色の花びらは小さめで品がある。園内には句碑も多く、その中に河東碧梧桐の句碑もあった。おおらかな文字はいつ見ても好きだ。
 このドライブ旅行は、『蝸牛俳句文庫 井上井月』を出版していて、伊那市には俳人井上井月の墓があることは知っていたので、どうしても墓参りをしたかったこともある。

 今宵は、伊那の俳人井上井月の作品を見てみよう。

  寝て起て又のむ酒や花心 
 (ねておきて またのむさけや はなごころ)

 種田山頭火は、井月のお墓に参ったという。井月は明治20年に亡くなっていて、山頭火が『井月全集』を初めて見たのは昭和7年というから没後40年以上は経っている。しかも山頭火がお墓に参ったのは昭和14年で、全集を読んでから7年後である。
 
 『蝸牛俳句文庫 井上井月』の編著者の春日愚良子氏は、次のように解説に書いている。
 山頭火は日記に書いた。「井月の墓は好きだ。書はほんとうにうまい」また「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通(ろつう)や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と。
 この山頭火の日記からすると、井月の生きざま死にざま、酒好きに、山頭火は自分の生きざま死にざまを想定し、同情していることがはっきりできるのである。
 山頭火は、井月の墓に参って、〈お墓したしくお酒をそそぐ〉の句を詠んだ。

  降るとまで人には見せて花曇
 (ふるとまで ひとにはみせて はなぐもり)

 井月の墓碑は、掲句が刻まれているから、墓碑であり句碑である。没後150年近いので、碑の文字は薄れてしまって、私たちが確認したのは立札に書かれたものを見たからだったと思う。
 このお墓にたどり着くには随分迷った。辺りには大根畑が広がっていて、収穫していたお百姓さんに声をかけ、メモしながら道を教えていただいた。去り際に大根を抜いて、「もっていきな!」と渡してくれた、大きな大根で見事な葉っぱもついていた。

 一際高い一本の杉の木の下に、年輪を感じさせる古りたちいさなお墓があった。
 本を読んでいた私たちは、日本酒のコップ酒を3本用意した。夫と私はそれぞれお墓に注いだ。うっすらと文字が浮かんできたのは、井月が喜んでくれているのだと思った。酒好きの夫は、お墓に注ぎつつ自らも1本を嬉しそうに飲んだ。
 句意は、雨曇ともつかない花曇りを「人には見せて」ということだろう。技巧を見せた句である。

  1・我道の神とも拝め翁の日
  2・旅人の我も数なり花ざかり

 井月は、芭蕉の〈旅人と我が名よばれん初時雨〉の「時雨」の俳諧精神に繋がって生きてきた。また、西行法師の歌〈世を厭ふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせん〉の「数ならぬ身」の系譜にも繋がって生きてきた。
 
  3・何処やらに鶴の聲聞く霞かな
  4・手元から日の暮れゆくや 凧
  5・梅が香や栞しておく湖月抄  北村季吟の「源氏物語」の注釈書

 たとえば、『秀句三五〇選 井上井月』の中の4、5、6句目の作品などを読むと、井月が後半生では「ほいとう=ものもらい」と呼ばれた人であるとは思えない作品である。

 井上井月(いのうえ・せいげつ)は、、文政5年(1822年)没年より逆算 – 明治20年(1887)越後長岡に生まれる。別号に柳の家井月。「北越漁人」と号した。安政5年(1858年)ごろ、30代後半の壮年であった井月は突然伊那谷に姿を現す。以来約30年の間、この地で死去するまで上伊那を中心に放浪生活を送り続けた。酒好きでも有名。また書が上手く俳諧の道に練じていた井月は、文化人として伊那谷の人士から歓迎された。句集『越後獅子』『家づと集』など。明治20年、伊那市大田窪美すゞで66歳で没。
 
 編著者の春日愚良子(かすが・ぐらし)は、昭和3年、伊那市の生まれ。新聞「伊那毎日」主幹。俳誌「岳」「円環」同人。