第二十五夜 石田勝彦の「ぺんぺん草」の句

  死ねといふ風のぺんぺん草がいふ  石田勝彦『秋興』
 
 句意は次のように単純明快であろう。
「散歩しているときだ。風が吹いてぺんぺん草がサラサラと音を立てた。その音がまるで、死んじまえ、という声に聞こえたのは。」

 ぺんぺん草は「薺(なずな)」のことで、道端の野草、畑地の肥料として生えていて、白い花が終わる頃に三味線のバチの形をした実ができる。子どものおもちゃとしては、実の茎を剥いて垂らし、くるくる回すと音が鳴る遊びがある。大人になってもぺんぺん草はたのしい。
 だが掲句は、実の立てる音ではなく、道端などに咲いている白い花が風に揺れている光景である。たとえば、歩いていてぺんぺん草がサラサラと風に音をたてた、そんな時だ。「もう、死んでもいいんじゃないかな?」「死んじまえよ!」などと耳元で誘いの言葉が聞こえるのは・・・。
 「風のぺんぺん草」の言葉が軽やかでいい。「死んでもいい」と思うのは、辛いから逃げたい、という切実な死の願望ではない。ある年齢になって、とくに不満があるわけでもないのに、自分はこの世にさして必要でもないような気のすることがある。そのような時に聞こえる声だと思う。
 
 石田勝彦(いしだかつひこ)は大正九年北海道生まれ。昭和二十九年以来の石田波郷門である。波郷没後は昭和四十九年「泉」創刊に参画、編集長を務めた。『秋興』は、平成元年から八年までの中から二九〇句を収めた第三句集で、平成十一年度の第三九回俳人協会賞を受賞した。
 
 綾部仁喜による勝彦のプロフィールは、次のようである。
 「石田勝彦氏は現在写生派の俳人と見られているが、それまでの生活諷詠俳句からの転換は、昭和六十年前後だったと記憶している。無論自己の俳句確立のための模索であったが、何ゆえの写生句かは審かにしない。しかし一度思い切れば徹底するのが氏の性行で、高野素十を初めとする「ホトトギス」作家の句集を猛然と学び、歳時記も虚子編『新歳時記』一本に絞り込んだ。(略)
 勝彦俳句の特色は、写生の背後に人間が存在していることである。第二句集『百千』以後、氏の写生は客観の度を強めているが、それと呼吸を合わせるように人間の存在も色濃くなりまさってきている。ここが当初からの写生派俳人と異なるところで、写生に人間探求派の出自を二枚重ねした、これは勝彦俳句の一つの強みになっている。」
 もう一句紹介しよう。

  亡き妻のしづかに座る雪の椅子

 勝彦の生まれた北海道の景ではなくて、都会に降る雪景色だと思いたい。公園の椅子に雪がこんもりと積もっている。冷たい雪なのだけれども、どこか懐かしく温かいのである。そんな「雪の椅子」を見ていた作者は、ふっと亡くなった妻が座っているように感じた。もしかしたら本当に見たのかも知れない。やさしく素敵だった奥様を、きっと、今でもここかしこに感じているのだろう。