第三百七十五夜 松尾芭蕉の「初しぐれ」の句

 時雨は晩秋から初冬の頃に、晴れていたかと思うと一瞬に曇りさっと降り、また晴れるといった雨で、通り雨ともいう。語源は「しばしば暮れる」「過ぐる」だそうである。
 「初時雨」は、「初」の1文字のあることでいよいよ時雨の季節に入った思いがこもる季語である。
 
 今宵は、昨夜につづいて時雨の句を見てみよう。

  旅人と我名よばれん初しぐれ  松尾芭蕉『笈の小文』 

 芭蕉の忌日は、元禄7年陰暦10月12日で、西暦では11月12日でちょうど立冬を過ぎたころ。
 この作品は、「おくのほそ道」の2年前の貞享4年10月11日、其角邸における芭蕉の上方行を送った餞別会に出された句である。連句『笈の小文』の発句である。
 出立に当たっての『笈の小文』の序文の一部を紹介する。
 「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。(略)つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。」
 
 何度も読み書き写した『笈の小文』ではあるが、やはり難しい。
 西行も宗祇も雪舟も利休も、それぞれの道は異なるが風雅の美を求めて歩み続けた人たちだ。芭蕉も又、俳諧という一つの道を歩み続けている。先人たちも旅を多くした中から得た一筋の道であるが、「旅人」とは、実際の旅に出ることであるとともに、それぞれの生きる道を真っ直ぐに歩み続けている人であることのような気がしている。
 
 句意は、俳諧の道を求めつつ歩んできて、旅人と呼ばれるようになった私に、今も、冷たい初時雨が降っている、ということになろうか。風雅の道は、生涯かけての道であり、終わりなき道であることは覚悟の上であった。
 「初時雨」は、「初」の1文字のあることでいよいよ時雨の季節に入った思いがこもる季語である。【初しぐれ・冬】

 もう1句、高野素十の「時雨」の句を紹介しよう。

  翠黛の時雨いよいよはなやかに  高野素十 『初鴉』
 (すいたいの しぐれいよいよ はなやかに)
 
 昭和2年の暮れ、高野素十は高浜虚子一行に加わり時雨を訊ねて京都西山北山を歩いた。「翠黛」は、寂光院の眼前に見える大原三山の1つで標高577メートルの山である。
 一行はなかなか時雨に出会わなかったが、寂光院でとうとう降り出した。
 『ホトトギス雑詠句評会抄』から、虚子の選評の一部を見てみよう。

 「眼前に翠黛山を見渡したときには愈々時雨がしげくなって来て、それに日の当たっている光景が翠黛山をを銀糸で包んだかの如き光景を現出した。そのとき素十君は「はなやかですね」と言った。
 私も何を隠そうその光景を見たときには華やかな感じを抱いていたのであるが、但し、「はなやかですね」と言われたときにはどきんとした。時雨にはなやかという言葉を用いることは晴天の霹靂であった。」

 句意は、見たままであろう。【しぐれ・冬】
 
 京都の時雨は美しい、と虚子は言う。
 私は無論、東京の時雨には出会っているが、初冬の夕立ほどしか感じていなかった。「時雨」という言葉は、銀糸で包むような光景があってこその燦めくのが、和歌伝統の京都を中心に生まれた美しい言葉なのであろう。

 第一句集『初鴉』の虚子の序で「文字の無駄がなく、筆を使うことが少く、それでいて筆意はたしかである。句に光がある」と、素十はいわれた。