第二十七夜 中村苑子の「雪」の句

  音なく白く重く冷たく雪降る闇  中村苑子『花隠れ』

 最後の句集である平成八(1996)年刊『花隠れ』の最後に置かれた掲句は、苑子俳句には珍しく平明で、句意はそのままのように思う。
 
 何と直叙的であろうか。雪というものの本質を見事に捉え、言葉を重ね、それだけでもう、たまらずに空から降りてくる。「音なく」「白く」「冷たく」は誰でも思う。さらに「重く」と苑子は詠んでいる。「重く」って何だろう。
 空から落ちてくる雪の「一片一片」を想い「一片の雪」の行く末に想いをかけて、雪の一生というものに「重さ」を感じてしまうということであろうか。一片一片の雪の「重さ」が苑子の生きてきた一瞬一瞬の「重さ」であると言いたいのであろうか。「重さ」をこのように感じてみると、この句が苑子最後の句であることから、苑子の一生の暗喩であるようにも思えてきた。そして、辞世の句のように思えてきた。
 「雪降る夜」ではなくて「雪降る闇」であるところが、苑子俳句である。眼前の景を見ながら、「苑子の闇」に止むことなく降りしきる雪を見ているのである。未知なるもの、空漠たる景、死の世界である。「死の世界」は静かで美しく誘い込むような「闇」である。

 蝸牛社の「俳句・俳景」シリーズというのは、俳句を作るときの裏側をちょっと覗かせてもらうことによって、俳句の鑑賞も深くなると考えたシリーズである。このシリーズの8巻目が『私の風景』で、『花隠れ』の翌年の平成九年に刊行された。
 
 苑子俳句は、謎のような言葉に満ちていて言葉の魔術に魅せられるようにはまり込んでしまう。その掴みきれない部分が更に追いかけてみたくなるのが苑子俳句の魅力であるが、『私の風景』では、俳句・俳景という謎解きを見せてくれるであろうか、と期待をしたが、まるで違った。
 一冊は33のテーマ、右ページに俳句、左ページはエッセイという構成であるが、俳句の説明など左ページには一切書かれてはなかった。しかしテーマに沿っての俳句とエッセイは、見事に緊張感のある糸で引っ張られるかのようであった。
 自分の心の俳句工房の中には誰にも立ち入らせない、という苑子の厳しい作句態度は、機織りの場を誰にも見せずに世にも美しい反物を織った鶴「つう」のようであると思った。
 
 たとえば『私の風景』の67ページには次のようである。
「(略)自分はなぜ俳句を書かずにいられないのだろうと、折にふれては考えていた。つまり、自分にとっての俳句の存在理由なのだが、答えは結局「荒ぶる魂を宥(ゆる)めるため」とか「好きだから」ということになる。それに、わたしにとって俳句は大切な「密(みそか)ごと」だから、秘事はかたりたくない・・。」
 苑子俳句はいつも真剣に語りかけてくれる。ゆらゆらと近づきたくなる「危うさ」、側まで近づいてもどうしても到達できないもどかしさ、のこのこと近づいたら忽ち跳ね返されてしまう「きっぱりさ」とが、俳句と文章を通した遠見での私の感じている中村苑子である。
 
 中村苑子は句集『花隠れ』を最後の句集にするつもりだと言った。
 この句集を最後に作品発表はしていらっしゃらなかった。

(追記)中村苑子さんが平成十三(2001)年一月五日の午前九時二十八分、肝臓障害のため亡くなられた。八十七歳の御生涯であった。蝸牛社の「俳句・俳景」シリーズ8巻『私の風景』の編集担当の私が、原稿を戴いた折の句で、手にして読みはじめた時の感動が今もありありと甦ってくる。
 
  花石榴苑子の稿をてのひらに  あらきみほ