第二十八夜 種子島七海の「いちょう」の句

  いちょうが黄色いかおしてあはははは  種子島七海 小3
 
 秋の季語「銀杏黄葉」なのか、それとも、冬の季語「銀杏散る」だろうか。
 どちらとも言えそうだが、考えてみよう。
 
 「いちょうが黄色いかおして」は、まず、黄葉した銀杏だと考える。ピークのときは見事な黄色である。この場合は、季語は秋の「銀杏黄葉」となる。
 では、「あはははは」はどんな状況だろう。大きな銀杏の葉っぱの全てが黄葉したときの姿とも考えられる。
 でも、「あはははは」と腹を抱えて笑うときは、木の葉が散っている場面とも言えそうだ。そうすると、季語は冬の「銀杏散る」又は「銀杏落葉」となる。
 
 こんな風に、季語のことばかり考えると、この句はつまらなくなってしまうかもしれませんね。
 大人だったら、とても作れない素敵な俳句だからだ。
 
 私・あらきみほが、まだネット俳句の走りの頃に、「インターネット・ハイク・ワンダーランド」を5年間ほど試みていた時期があった。投句してくれたのは、小学校の先生。俳句授業の取り組みのなかでできた生徒たちの作品である。子どもの心が真っ直ぐに向かって来るような作品であった。学校の数は多くはなかったけれど、掲句の七海さんの小学校と、アンデス山脈の麓の日本人学校の小学生の投稿から、教師の熱心な指導ぶりが、パソコンの向こう側から伝わってくるように感じられたことを、今でも印象深く残っている。
 子どもに授業で俳句を教えるのは、相当な熱意がなくてはできない。子どもの話す言葉を掬いとってあげることが大事だからだ。大人の場合でもそうだが、俳句を詠むには基礎は必要だけど、正解は一つというわけではない。言葉を引き寄せることの難しさは大人であっても一生続くである。
 
 「千夜千句」の主眼である、作品の鑑賞をしてみよう。
 この作品には動詞が「黄色いかおして」の「して(いる)」だけで、他には使われていない。たった十七文字の俳句でも、文章として意味が通ってていないと読み手には伝わらないので、つい説明をするために動詞を使ってしまうことが多い。
 「黄葉する」と言わずに「いちょうが黄色いかおして」とし、「銀杏散る」と言わずに「あはははは」と詠んだ七海さん。言葉を最小限にとどめて、思い切った情景を感じさせてしまう、見事な技を見せてくれた。
 
 「あはははは」には動きがある。「黄色い顔して」は黄葉の具体的な描写であり、「あはははは」という笑い声は「銀杏散る」の具体的な動作の描写だ。
 この句は主観的でなく客観的であるから、銀杏の木が、まるで笑っているかのように黄色い葉っぱを散らしている姿が見えてくるのである。
 この句は、十一月末から十二月の初めの、冬晴れの光景「銀杏散る」に違いないと思った。