第三百八十三夜 中村草田男の「寒星」の句

 11月も終わり頃になると、晴れた日の茨城県南の夜空は、澄んでいた秋の空よりもずっと沢山の星々が輝くようになった。北斗七星は南の正面に見える。
 秋よりも夜空が澄んでくるのは凩が吹く霜夜。よく光る荒星となるから、小学校や中学校で理科の時間に教わった星座の形が浮かんでくるのだろう。
 毎晩、9時頃に犬を連れて散歩にゆくが、犬は放っておけば、空を見上げる私の時間となるから、夜道でも安心して空を見上げることができる。

 今宵は、冬の星の作品を見てゆこう。

  寒星や神の算盤たゞひそか  中村草田男 『銀河依然』 
 (かんぼしや かみのそろばん ただひそか)

 「寒星」は(かんぼし、かんせい)とも呼ぶ。上空には偏西風の流れがあって、冬には強いジェット気流が流れ寒気も強く、この寒風によって星は美しく瞬くのだという。
 掲句は、昭和23年の作で句集『銀河依然』に収められている。この頃の夜空は、今から想像できないほど星々に満ちて美しかったと思われる。
 草田男は、夜空の星々を大空にばらばらと撒かれた算盤の玉のごとく想像した。草田男の自解を要約したものを宮脇白夜の『草田男俳句365日』から転載させて頂く。
 「ある冬の夜、海辺に近い淋しい場所で、爛々と輝く満天の星を仰ぎ見た時、人間が算盤玉を動かすように、眼に見えない神が、その星々を大きな調和を保ちながら動かしているように感じ、その崇高さに打たれ、その大きな力にすべてを委ねねばならないと感じて、作品化したのである。」
 
 人間は何事もすべてを自分でできるわけではない。気づかないうちに助けられていることもあるし、その逆もある。きっと、大いなる神とも言うべき御手のなかに私たちは委ねられているのかもしれない。
 下五の「たゞひそか」に、何も言わない神の沈黙を思った。【寒星・冬】
 
 もう1句、加藤楸邨の作品を考えてみよう。

  生きてあれ冬の北斗の柄の下に  加藤楸邨 『雪後の天』 
 (いきてあれ ふゆのほくとの えのしたに)

 昭和17年の作。教員をしていた楸邨は〈幾人をこの火鉢より送りけむ〉など詠んで、出生した教え子の安否を思いつつ自分も戦地を見たいという思いに駆られたという。
 掲句の句意は、この冬天の北斗七星の下に居るだろう君たちよ、どうぞ生きていておくれ、死ぬなよ、となるだろう。
 「生きてあれ」とは、楸邨の強い呼びかけであったのではないか。【寒北斗・冬】

 昭和19年7月、楸邨は陸軍報道部及び雑誌「改造」の嘱託として、歌人の土屋文明、石川信雄らとともに大陸へ旅立った。
 蝸牛俳句文庫『加藤楸邨』の編著者の中嶋鬼石(なかじま・きこく)氏は、この時の楸邨の心持ちをこう述べている。
 「一度は命をかける場で俳句を詠まなければ、戦死してゆく人達にすまない」という気持ちからの参加であったという。
 サイパン島が陥落し、守備隊3万と住民1万が自決した頃である。【寒北斗・冬】

 この作品の収められた『雪後(せつご)の天』は、昭和19年刊行の第3句集で、〈隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな〉の作品も収められている。
 今宵のブログは、意図したわけではなく偶然だが、楸邨が陸軍報道部とともに戦地へ行った事実を、草田男が「楸邨氏への手紙」を書いて強く攻めたことを思い出した。
 中村草田男も加藤楸邨も、「この人から俳句を取ったら何もありません」という二人であった。