第三百八十四夜 日野草城ほか4名の「冬の月」の句

 このところ、割合に晴天が続いてをり、時には雲間から覗く月夜もあったが、日に日に丸くなり今日は冬満月だ。夜の9時には雲も消え、一等星の星たちも霞むほど、月は明るく黄金色に輝いていた。

 今宵は、冬の月の作品5句を紹介してみよう。

  冬の月寂寞として高きかな  日野草城
 (ふゆのつき じゃくまくとして たかきかな)
  
 清少納言は『枕草子』の中で、冬の月を「すさまじきもの、おうなのけさう(化粧)、しはすの月」としている。
 興ざめなものは、老女の化粧、十二月の月ですよ、ということである。
 冬満月は、透徹した青白味がすさまじきものであろうし、天心に近く、地上から眺めると遠く小さく感じられるのであろう。
 
 句意は、冬の月というものは、静かでひっそりとして、天心の遠く高くに輝いていますよ、となろうか。

  人込みに白き月見し十二月  臼田亜浪

 句意は、十二月というのは、街を行き交う人たちは誰もが忙しなく動き回っている。ふと見上げると月がしろじろと輝いていましたよ、となろう。
 この作品は、冬の月の特徴である白さを詠んでいるが、人込みの頭上を照らしている輝きが「白」であると言い留めたところが、一年の終いを肯っているように思われた。

  寝ぬる子が青しといひし冬の月  中村汀女
 (いぬるこが あおしといいし ふゆのつき)

 「寝ぬる子」は、もしかして熱を出して寝ている子ではないだろうか。汀女には〈咳の子のなぞなぞあそびきりもなや〉の句があるが、幼い子は、よく風邪を引いては熱を出して寝込み、母親はつきっきりで側にいる。
 冬の月の白さは、青白くもある。高熱で寝ている子の目には、きっと「青い月」と感じたのであろう。
 句意は、次のようであろう。
 「ねえ、おかあさん、月ってあおいのね。」
 「まあ、ほんとね、今夜は青く見えるわ。」
 など、母と子のやりとりが聞こえてくるようである。

  冬満月われの匂ひの中にねむる  寺田京子

 「われの匂ひの中にねむる」にはドキッとした。何度か口づさんでいるうちに、作者は、窓から見える冬満月を、あるいは、帰りがけに見上げた冬満月を思いながら寝たのであろうかと思った。それが「われの匂ひの中に」であり、即ち、冬満月をわたしの匂いのするベッドに寝かせてあげるということだろう。
 その瞬間、まるく輝いている冬満月は、作者の心に入っていった。

 寺田京子(てらだ・きょうこ)は、大正11年に北海道札幌市の生まれ。俳人。放送作家。加藤楸邨に師事し、昭和29年に「寒雷」同人となる。結核のため闘病生活を送る。持病との闘いの中で自己をみつめる作品を発表。54歳で死去。

  頑なに言ひ争へば寒月下  片山桃史
 (かたくなに いいあらそえば かんげつか)
 
 「言ひ争へば」とは、俳句上での争いだろう。この時代は、有季か無季か、新しい素材のこと、例えば、当時の「戦争」は季語と同じほどインパクトがあるから季語の代わりに「戦争」の言葉を入れよう、などであろう。
 句意は、仲間同士で己の考えに頑なに言い争ったが、なんだか虚しく淋しく、寒々とした冬の月が見ていましたよ、となるだろうか。
 
 片山桃史(かたやま・とうし)は、昭和10年に日野草城の「旗艦」創刊に参加、昭和12年に応召され中国大陸に従軍しながら、戦地で詠んだ俳句を本国に送り続けた。桃史は、昭和16年に再び応召され、19年東ニューギニアで32歳で戦死した。この作品は、復員中の作品だという。