第三百八十六夜 原田桂子の「着ぶくれ」の句

 12月2日と3日のまる二日かけて行われる大掛かりな秩父神社の祭は、曳山祭と言われ、笠鉾と山車の6基が、秩父屋台囃子の奏されるなか、夜を徹して市中を練り歩き、御旅所まで渡御する。花火も盛大に打ち上げられるそうだ。
 この秩父地方の師走名物である「秩父夜祭」は、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭の一つに数えられ、2016年には「秩父祭の屋台行事と神楽」としてユネスコ無形文化遺産に登録されているという。
 
 本来ならば、今日は夜祭の初日。だが長いコロナ禍が冬になってさらに勢いを増し、今回は中止と決まった。
 
 今宵は、『こほりの影』から、桂子さんの「秩父夜祭」の作品を紹介してみよう。

  夜祭の着ぶくれの渦まはり出し

 例会に出された句であったと思う。中七下五の「着ぶくれの渦まはりだし」を口ずさんでみると、それだけで、私たちまで引き回されているような気分になる。12月になれば、ニュースで秩父夜祭の映像が流れてくる。すると再びぐるぐる山車とともに引き回されてしまう不思議な句である。
 12月の秩父は寒く、夜は一層寒さが厳しいことだろう。アノラックもマフラーも帽子も手袋もふかふかと、スキー場に行くように、着ぶくれて万端の準備でこの祭の場に立っている。
 
 桂子さんは、季題を「秩父夜祭」としないで、同じく冬の季題である「着ぶくれ」を用いた。
 「着ぶくれの渦まはりだし」とした。
 見上げるような大きな山車を主役にはせずに人間という観衆を主役にした。
 桂子さんの季題の選び方の、なんと見事なことであろうか。
 「秩父夜祭」という祭が、「夜祭」と「渦まはりだし」の的確な言葉によって、祭の大きさが伝わり、さらに、大群衆が「着ぶくれ」ていることで、ぎゅうぎゅう詰めの観衆であることが、すべて余すことなく伝わってきた。【着ぶくれ・冬】

 冬の作品を、もうすこし、紹介させていただく。
 
  ペンギンのやうに凍道歩きけり

 桂子さんは、「花鳥来」の小句会「古町ウォーク」にも所属してをり、子育てが終わった最近では泊りがけの吟行句会にも出席する。
 釧路の鶴居村へ行かれたときの作。この作品を俳誌「花鳥来」で拝見して思わずにっこりしたことを思い出す。凍道(いてみち)は、雪道よりも気温が低く凍っていて滑りやすい。スノーシューズは履いているが、それでも転んだら大変だから歩調がよちよち歩きになってしまう。
 その姿が「ペンギンのやうに」であろう。背の高い桂子さんだが、ペンギンのように両足はよちよちと、両手は広げてバランスをとりながらであるから、まさに「桂子ペンギン」が目に浮かんでくる。【凍道・冬】
 
  悲しみの呼び戻さるる鴨のこゑ

 平成17年、お母様が亡くなられて暫く経ってから詠まれた作品であろう。鴨の鳴く声を聞いたとき、もしかしたら亡くなられた直後には桂子さんは、喪主として怺えているから、思い切り泣いたりすることはなかったのではないだろうか、「悲しみの呼び戻さるる」とは、きっとそういうことだろう、今、あの悲しみが堰を切ってしまったのだ。【鴨・冬】
 
 最初に師事した「藍生」の黒田杏子主宰の帯文を紹介しよう。
 「原田桂子の立姿は美しい。
  二十余年の句縁を通してその印象は変わらない。
  俳句に出合い、惜しみなく学びつづける道を選びとった女性。
  この人と句友であることを誇りに思う。」
  
 その4年後に師事した「花鳥来」の深見けん二主宰の序文にはこう書かれていた。
 「その俳句は、勿論作者の稟質(ひんしつ)によるものであるが、同じ山口青邨門の二つの結社に属したことが、その俳句の骨格の形成、発展にプラスになっているように思う。」
 
 原田桂子(はらだ・けいこ)は、昭和19年4月1日、東京の生まれ。平成2年、黒田杏子主宰の「藍生」創刊と同時に入会。平成6年、深見けん二主宰の「花鳥来」に入会。「花鳥来」「藍生」会員。「青林檎」同人。俳人協会会員。第1句集『こほりの影』。