第三百八十七夜 山口青邨の「冬の日」の句

 「冬の日」と「冬日」の違いを考えながら例句を探していて、『山口青邨季題別全句集』の中に、〈冬の日のかなしや半日村といふ〉の作品に出合った。「半日村」って何だろうと調べているうちに児童文学作家の斎藤隆介、切絵作家の滝平二郎の『半日村』にたどり着いた。
 コロナ禍の中で図書館に足を運ぶことはなかったが、今日は久しぶりに出かけて、『半日村』『モチモチの木』『ベロ出しチョンマ』の3冊を借りてきて、直ぐに読みはじめた。
 素晴らしい内容であった。やさしさがあり、行動力があった。私は、なぜ読まなかったのだろう。
 だが山口青邨は、私よりも50年も大先輩であるのに、最新作の児童文学に興味を持って読んでいた。
  
 今宵は、「半日村」に惹かれた山口青邨の作品をみてゆこう。

  冬の日のかなしや半日村といふ  『薔薇窓』

 半日村というのは、一日のうちの半分しか日が当たらない村のこと。なぜかって、村の後ろには高い山がそびえていて、朝、お日さまが上っても、お日さまは村を照らすことはない。午後になるとお日さまは顔を出し光が満ちるが、あっという間に夕方になる。日照時間が短いから、米のできは悪いから、村人はずっと貧乏だった。
 この作品は、半日村の冬である。冬はそもそも「短日」というほど日照時間がすくない。お父さんとお母さんは話している。「あーあ、山さえなかったら」「だめさ。山はうごかせやしないんだから」と、この村に生まれたことを悲しみ、運命だと諦めてもいる。
 青邨は、こうした大人たちの嘆きを俳句に詠んだ。
 
 だが、この物語の凄いところは、これからだ。父と母の嘆きを聞いた男の子は、翌朝には袋を持ってひとりで山に登った。土を袋に入れては山を下りて湖に捨て、また山に登り土をはこんだ。それを見た仲間の子どもたちが、手伝うようになった。それを見た大人たちが、袋でなくモッコをもってきた。モッコとは、石や土を運ぶように作られている。
 大人たちは「ほりかたはこうするんだ」「モッコのかつぎかたはこうだ」と、教えてくれて、子どもたちと一緒に土をはこんだ。やがて、山は少しずつ低くなり、だんだんお日さまが早く顔をだすようになった。湖は半分ほど埋め立てられて耕地はふえた。お米が倍にとれるようになった。村人に笑顔がうまれた。
 半日村と呼ばれていた村は、一日村になった。
 
 「山口青邨君は科学者である。」と、第1句集『雑草園』に高浜虚子が序に書いたように、明治25年に盛岡市に生まれた青邨は東大採鉱学科を卒業し、東大教授となり、名誉教授の称号を受けた採鉱冶金学の学者である。 
 ホトトギスは大正8年から愛読していたが、句作を始めたのは大正11年の東大俳句会創立に参加して以降である。俳句よりも先に文章が虚子に認められていた。
 30歳から66年間の句業は、13句集の11,178句。青邨俳句は、俳壇では捉えどころがないと言われるほど。
 句材は豊穣であり、句風は、透徹した知性による静かさと激しさ、清廉さ、驚くほど素直なユーモア、そして変わることなき虚子への恩顧など多岐多彩である。
 虚子から客観写生を鍛えられ、四Sの秋桜子、素十、誓子、青畝、その後の草田男、たかし、茅舎等と切磋琢磨した時代が青邨にはあった。ひたすら真実と美を求めて観察(オブザベーション)を怠らないことは、複雑なものを単純化して一つの法則を作る科学者の方法と同じであった。