第三百九十二夜 石田波郷の「雁(かりがね)」の句

 昭和16年12月8日、日中戦争の行き詰まりの打開のため、日本はアメリカ合衆国とイギリスへ宣戦布告した。この日を第二次大戦の開戦日とした。
 私は、昭和20年11月の生まれで、全くの戦後派として育っているので、社会科の授業で学んではいたが、戦前のことを理解できているとは言えそうにない。
 だが地球上に戦争がなかったという時代はなく、どこかで常に戦争はある。
 
 昭和12年の日中戦争では、ホトトギスの長谷川素逝の前線俳句〈みいくさは酷寒の野をおほひ征く〉があった。
 昭和14年には第二次世界大戦が勃発し、国家総動員法が公布され戦地へ応召されるようになった。俳句結社の雑詠欄には戦争を詠んだ作品が増え、やがて戦争俳句論議が起きるようになった。
 山口誓子は、「俳句研究」の文中で、「もし新興無季俳句が、今度の戦争をとりあげ得なかったら、それは神から遂に見放されるときだ」と述べた。無季俳句には、渡辺白泉の〈戦争が廊下の奥の立つてゐた〉、西東三鬼の〈兵隊がゆくまつ黒い汽車にのり〉がある。
 昭和20年の終戦までを詠んだものを「戦争俳句」という。
 
 今宵は、石田波郷の、戦中戦後の作品を見てみよう。
 
  雁やのこるものみな美しき  石田波郷『病鴈(びょうがん)』 
 (かりがねや のこるものみな うつくしき)

 昭和18年9月23日、波郷は応召され、千葉・佐倉連隊に入隊した。
 俳誌「鶴」には、「妻と生まれたばかりの息子修大を残してゆくことになると、すべてのものが急に美しくなつかしく眺められる。」と、入隊前の気持ちが書かれている。
 句意は、雁となって大空から眺める大地、いま、留別にあたって眺めると、そのすべてが、美しくも別れがたく思われますよ、となろう。
 
 長男の石田修大著『わが父 波郷』には、波郷の戦後の随筆から、「どうしても国家の為にといふ大きな考へになることが出来ないでいた。たゞ未だ、這ひも立ちもできない一人の子どもの為に、俺は肥料になつてやるのだと思ふことで幾らか安心を覚えるのであつた。」という本心が紹介されている。【雁・秋】

  放鳩やうすうす帰る雁の列  『病鴈』
 (ほうきゅうや うすうすかえる かりのれつ)

 波郷は、一等兵となり通信用の鳩を扱う鳩兵(きゅうへい)であった。〈春の鳩肩に頭に飼ふ兵ぞ〉という作品もあり、波郷は「惨たる戦争の中で私の得た唯一の美しい記憶」と、書いている。【雁・秋】

  悴みて瞑りて皇居過ぎゐしか  『雨覆(あまおおい)』
 (かじかみて めつむりてこうきょ すぎゐしか)

 中国の戦地に到着するまでは、ひたすら軍人勅諭を諳んじていた波郷であった。戦時中は、たとえ電車の中からでも皇居の前となれば「気をつけ」の姿勢をとらなければ非国民と罵られたという。
 掲句は昭和21年の作である。戦後となり、もはや皇居の前であっても姿勢を正さなくてはならないという規則はない。
 句意は、以前は、手足が凍えて動かくなって目を閉じて、皇居の前を過ぎていましたよ、となろうか。【悴む・冬】

 今回の戦中戦後の作品は、石田波郷の長男の石田修大氏の著書『わが父 波郷』を以前にお贈りくださったことで、辛うじて理解できた部分が多かった。
 本著は、長男修大氏が、父波郷の享年の56歳と同い年になった時、日本経済新聞社の記者に仕事をすっぱりと辞めて、書いたものである。
 「自分の56年を振り返ってみるために、波郷の人生をなぞってみようかという気になった。そんな動機で書き始めた本である。」という。