第三百九十三夜 夏目漱石の「海の城」の句

 12月9日は、夏目漱石は、慶応3年(1867)-大正5年(1916)、最後となった小説『明暗』の執筆中に胃潰瘍のため49歳で死去。この日を漱石忌という。

 漱石の俳句数は、『漱石全集』によれば生涯で2527句。明治28年から30年までが漱石が最も多作した時期で、没年の大正5年まで折りにふれて作句した。
 虚子は後に『俳句の五十年』の中で、漱石の俳句のことを教師としての「余技にすぎない」と言い、また『漱石氏と私』の中では、先輩として充分に尊敬を払いながらも、俳人として「それほど重きを置いていなかった」とも書いていて、虚子は、俳人漱石に対してはかなり厳しい眼で見ていたようであった。
 
 だが、漱石と虚子には「小説」という共通点があって、「神仙体」の俳句、連句俳体詩を共に詠み、ホトトギスに発表するようになった「吾輩は猫である」は、ホトトギスの部数が倍増するほどの売行きで、漱石にとっては、小説家への一歩となった作品であった。
 
 今宵は、漱石と虚子の「神仙体」の俳句と「連句俳体詩」を紹介してみよう。
 
 明治29年、虚子が松山を訪れたときには、漱石と二人で道後温泉に行った帰り道で「神仙体」の俳句を作ったりした。

  1・蛤や折々見ゆる海の城        漱石 
  2・海に入りて生れかはらう朧月     虚子

 1句目、漱石の「海の城」とは春の蜃気楼のことで、大蛤が気を吐いて蜃気楼が出来るという俗説があるという。
 2句目、虚子の「朧月」も朦朧とした霞のかかった、どこか神秘的な情懐深い季語である。
 自分が非現実な神や仙人になったかのように空想して詠んだもので、子規派の俳人としての新しい試みの1つの「神仙体」であった。「俳体詩」は、意味の一貫したもので物語的である。
 
 明治37年になると、漱石と虚子が試みた連句や「俳体詩」の中に、こういった空想性、物語性は、いよいよ顕著になってゆく。
 「俳体詩」というのは、17文字14字長短2句の連続でありながら、連句が意味の転化を目的としている。本来は交互に詠むものだが、漱石は興に乗ると1人でどんどん付けたという。
 
 次の「俳体詩」は、2人の詠んだ「尼」の作品である。

  1・女郎花女は尼となりにけり  虚子
  (おみなえし おんなはあまと なりにけり
   弦の切れたる琴に音も無く   漱石
  (げんのきれたる ことにねもなく)

 1の俳体詩は、女郎花の花の咲く頃、あの女(ひと)は尼になりましたよ。あの女がいなくなった家は、まるで弦の切れた琴のようで、物音もなくひっそりしています、となろうか。
  
  2・天蓋につゞれ錦の帯裁ちて  虚子
  (てんがいに つづれにしきの おびたちて)
   歌に読みたる砧もぞ打つ    漱石
  (うたによみたる きぬたもぞうつ)

 2の俳体詩は、つづれ錦の帯を解いて仏壇の天蓋にしていますが、それは歌をくちづさみながら砧で打った帯でしたよ、と考えてよいであろうか。
  
 「連句俳体詩などがその創作熱をあおる口火となって、終に漱石の文学を生むようになったということは不思議の因縁といわねばならぬ」(『漱石氏と私』)と虚子は書いているように、物語を構築するこうした試みが漱石にとって文章を作る下地になったことは確かであろう。