第三百九十四夜 加藤郁乎の「いたどり(虎杖)」の句

 癖になりそう、というほどの鑑賞力が私にあるわけではないが、時折つつかれて、考えてみたくなる作者である。加藤郁乎俳句は、今宵は2度目、最初は第二百三十九夜で〈切株やあるくぎんなんぎんのよる〉のシュールな作品を試みた。
 
 今宵は、また違った加藤郁乎の作品を見てみよう。

  ≪Que sais-je?≫傾き立てるいたどり  『球體感覺』
 (≪クセジュ?≫ かたむきたてる いたどり)

 蝸牛社刊、鈴木伸一編著『秀句三五〇選 地』の中に、この作品を見つけた。≪Que sais-je?≫(クセジュ)は、哲学概論で聴いたモンテーニュの『エセー(随想録)』にある言葉で、「我、何をか知る」すなわち「わたしは何を知っているだろうか?」という意味である。
 大学を卒業して50年以上になった私は、この「クセジュ」はもはや謎めいた言葉ではなくなっていて、「わたしは、じつは何も知っていない」ことにようやく気づきはじめたところだ、ということを知ったような気がしている。
 
 句意は、わたしは何を知っているだろうか? 虎杖(いたどり)が少し傾いて茎を伸ばしている訳をわたしは本当に知っているだろうか、いや知らない。
 虎杖(いたどり)という草花は、春に細い茎をあちこち伸ばし夏には白い小花をつける。だが、「なぜ 傾き立てる」のかは誰も知らないだろう。自然にある全てが「なぜ」でなく、今ここに「ある」という、その事実を、人間は謙虚になって見ることが大切なのかもしれない。

 戦前に起こった新興俳句の俳人たちは、ホトトギスの高浜虚子に真っ向から反対しているように見えた。「花鳥諷詠」「客観写生」という言葉にひどく反発しているように見えた。
 掲句の、「傾き立てる」は、虎杖という植物をじつによく見ている客観写生の描写であり、そこからの「なぜ」であり、虎杖の何をわたしは知っていたのだろう、という1句になったのだと思う。【いたどり・春】

  冬の波冬の波止場に来て返す  『球體感覺』

 くり返し読めば、くり返し冬の波が波止場に打ちつけては返す、果てもない「波」の姿が見えてくる。波というものは止むことはなく、ずっと上下運動をくり返しているもの。波止場という行き止まりがあれば、くり返し打ちつけるが必ず「返す」のである。
 浜辺の波も同じで、砂浜に波となって押し寄せるけれど、波は返してゆく。
 この作品に惹かれるのは、厳しさの冬の波が、人間の生きる果てない厳しさと響き合うのかもしれない。【冬の波・冬】

  耕人は立てりしんかんたる否定  『球體感覺』  

 耕人(百姓)が一年で最も忙しいのは、春の耕し、畑や田圃を耕して土づくりの春である。昔は馬や牛の力を借り、現代は耕運機など力作業は機会がしてくれるが、耕人は、天候、土づくり、稲や麦、耕馬、耕牛、水、虫などなどの全てに知悉していなくてはならない。泥だらけ、日焼け、節くれだった手足など、見た目には格好よいとは言えない仕事である。
 だから、「耕人は立てり」なのだ。天地(あめつち)とともに日々闘い日々勝ち抜いてゆかねばならない。だから堂々としてをり、心肝として否定もする。
 私は、これほどに頑とした百姓という職業を詠んだ俳句に初めて触れたような気がしている。【耕人・春】
 
 『江戸櫻』には〈おのづから俳は人なりこぞことし〉の作品もあり、あと少しで今年も終わる。今宵は、1度目の第二百三十九夜とは、全く別の加藤郁乎を見せていただいた。