第三百九十五夜 原 裕の「息白し」他〈老〉の句

 今朝、窓からの眺めは一面の濃い霧であった。利根川が近いから霧が湧く。私はすぐにも飛び出して10年前のように利根川の土手を歩きたかったが、案の定、夫に止められた。
 12月になると手紙を書くことが多い。父や母のこと兄や姉のことなど、自分の歳を考えれば、老もその先の死も、自然なことなのかもしれない。
 午後、石寒太編著の『秀句三五〇選 老』を読みはじめた。〈老〉とは、どうやら上手に年輪を重ねてゆくことのようだ。美しく老いて逆に老を大いに愉しく過ごすことであると、石寒太氏は世阿弥の「時分の花」を引いて説明している。
 
 今宵は、〈老〉の作品をを5章に分けた順に紹介してみよう。
 
 1章は「老」である。表現として、〈老〉を直接に詠みこんである句。

  老残のこと伝はらず業平忌  能村登四郎
 (ろうざんのこと つたわらず なりひらき)

 在原業平は平安時代歌人で六歌仙の一人。代表歌に〈世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし〉『古今和歌集』撰歌がある。『伊勢物語』のモデルと言われ、男振りから艶聞でならした一生であったという。
 句意は、今日は業平の命日。男振りでならした一生であったのに、老いさらばえた晩年の姿は伝わっていませんね、となろうか。【業平忌・夏】

 2章は「花」である。人間の一生は川に似ている。老年期だけに〈老〉の花が咲くわけではない。流れ行く水は決してとどまることなく流れる。ここでは、老年期に辿りつくまでに咲いた「花」に結実した句。

  子の忘れし乳房漂ふ柚子湯かな  丹間美智子 
 (このわすれし ちぶさただよう ゆずゆかな)

 丹間美智子さんは、石寒太主宰の「炎環」でご一緒した先輩の俳人。どうしていらっしゃるかとネットを見ると、なんと、鎌倉で有名なカレー専門店「キャラウェイ」のご主人だそうである。
 句意は、一仕事終えた柚子湯に浸かっている。柚子がぷかぷか浮いて、美智子さんの豊かな乳房にぶつかる。子がかつて大好きだったこの乳房も今ではすっかり忘れた顔をしていますよ、となろうか。【柚子湯・冬】

 3章は「族」である。父・母・妻・夫・子供など、家族に感じた〈老〉を捉えた句。
 
  年寄りし姉妹となりぬ菊枕  星野立子
 (としよりし しまいとなりぬ きくまくら)

 高浜虚子には7人の子が生まれ。長女の真下真砂子、次女の星野立子、三女の新田宵子、四女六(ろく)、五女の高木晴子、六女上野章子で女は5人生まれたが、四女の六ちゃんは2歳にならずして死去。
 皆俳句を嗜み、立子は「玉藻」、晴子は「晴居」、章子は「春潮」の主宰者。若き日は並んで歩くと誰もが振り返るほどの美女。気がつけばお互いに年をとってしまった。「菊枕」は、花びらを摘んで乾かして枕に縫い込んだもの。仲良しの姉妹は時には一緒に菊枕して仄かな香の中で一時のお喋りを楽しんだに違いない。【菊枕・秋】

 4章は「命」である。やはり〈老〉は、生死と切り離して考えることはできない。人間は、避けることのできない死に向かって、一歩一歩と近づいてゆくのである。そうした句。
  
  死神が毛糸の毬をころがせり  神生彩史 

 句意は、編物をしていたとき、膝の上から毛糸玉が転げ落ちてしまった。あらっと思った。だがよくあることだ。例えば、死ぬときも何でも無い動作の続きのうちに、ころっと逝くこともあるかもしれない。死神だけが知っていて、死神の采配かもしれない。
 生きている間は、なにやかや予定をびっしり立ててしまう。これを終えないと「死ねないわ」とばかりに。【毛糸玉・冬】

 神生彩史(かみお・さいし)は、明治44年(1911)-昭和41年(1966)、東京の生まれ。日野草城に師事し「旗艦」創刊に参加。昭和23年、「白堊」創刊、主宰。句集は『故園』『神生彩史定本句集』。昭和15年前後の新興俳句運動の無季作品〈抽斗の国旗しづかにはためける〉を思い出す。

 5章は「遊」である。人間ばかりではなく、動物・植物にも、〈老〉は生きてゆく全てのものに平等にやってくる。〈老〉の時を迎えなければ見えてこないものを詠んでいる句。
  
  枯るる中われはゆつくり枯れんかな  林 翔 
 (かるるなか われはゆつくり かれんかな)

 林翔は、國學院大學に能村登四郎と知り合ってから、短歌、そして俳句「馬酔木」、能村登四郎が創刊し主宰する「沖」では編集長として支えつづけ、二代目の能村研三氏に主宰を譲って後は「沖」最高顧問として務めた。95歳を全うされた。
 句意は、ものみな枯れてゆく中をゆっくり歩いてゆく作者。枯れる時期というのは皆さまざまであるが、私はゆっくりでいい。私流にゆっくりと枯れてゆこう、となろうか。【枯れ・冬」】