第三百九十六夜 高浜虚子の「時雨」と他2句

 今日は土曜日、朝から家の中でいろいろ片付けていて遂に、夜の犬の散歩で外に出た。畑の間の砂利道をぬけてゆくと、大通りのふれあい道路だ。今、銀杏並木は黄葉を半分ほど落としてはいるが夜の紺色の空に黄色が映えてうつくしい。わが家のノエルは黒犬なので、これもまた黃の銀杏落葉になかなか映えている。
 
 今宵は、蝸牛社刊の鈴木伸一編著『秀句三五〇選 地』から、選者の考えた章立てから3句の作品を紹介してみよう。

  天地の間にほろと時雨かな  高浜虚子 「Ⅲ・自然」
 (あめつちのあわいに ほろと しぐれかな)

 「天地」の「あめつち」という読み方は、俳句に携わるようになってからのように思う。天と地、全世界、宇宙という意味となる。
 虚子のこの作品は、『六百句』の昭和17年11月22日の作で、同年11月6日に亡くなった門下の鈴木花蓑の追悼会に寄せた句である。
 句意は、天と地の間に「ほろと」落ちてきましたよ、時雨がこぼれるように落ちてきましたよ、となろうか。
 破調であるが、「ほろと」の3文字のなんと優しさに満ちた言葉であろうか。「時雨かな」からは、写生の道を共に歩んできた「写生の鬼」ともいわれる愛弟子を失った虚子の、一粒の涙のように感じられる。【時雨・冬】
 
 虚子は時雨を愛した。『虚子俳話』の「天地有情」(三)にこの作品と文章がある。一部を転載させて頂く。
 「東京の時雨は暗い。京の時雨は明るい。
  東京の時雨は物淋しい。京の時雨は華やかだ。
  (略)
  天にも命がある。地にも命がある。
  その間に一粒か二粒の時雨が生まれて、天地の命が動いて、それがほろと落ちる。
  俳諧の命。
  天地有情。」

  天上大風地上に春の花きそふ  角川源義  「Ⅲ・自然」
 (てんじょうたいふう ちじょうにはるの はなきそう)

 「天上大風」は、良寛さんの言葉だという。子どもたちとよく遊んだ良寛さん、凧上げをする子どもに頼まれて、凧に「天上大風」と書いて喜ばれたという逸話がある。角川源義は、角川書店の創始者で俳人。
 句意は、大空の上では春の大風が吹いているであろうが、地上では花が競うように咲いていて春爛漫ですよ、となろうか。
 冬から春の変わり目は低気圧が猛烈に発達し、春一番が吹き、花信風(かしんぷう)が吹く。花の咲く時分に吹く風である。「春」という言葉からは、柔らかなイメージがあるがじつは激しい季節である。【春の花・春】

  土龍穴踏み躙りをり毛見のあと  小澤 實 「Ⅱ・人間」 
 (もぐらあな ふみにじりをり けみのあと)

 わが夫が、この茨城県南の地に越してきて、やってみたいと思っていた畑作をはじめるようになった。妻の私は、しゃがんでの作業は苦手で、収穫して運んでくれた後のことだけ、料理して食べるだけをしている。たまに、車で運ぶ手伝いをした折に、「これがモグラの穴だよ」と、教えてもらった。
 「土龍穴」は、土が軟らかく盛り上がった所。地下に穴を掘りながら進み、時折、顔を出すようである。

 「毛見」とは、室町時代以後、米の収穫前に役人がきて収穫量を検査して年貢米を決めることをいう。
 句意は、毛見にやってきた役人が、そこら中を歩き回って調べる際に、土龍の穴を踏んでぐちゃぐちゃにして行きましたよ、となろうか。
 小澤實氏はまだ60代前半という若さである。土龍穴を見たとき、歴史上の光景が浮かんだのかもしれないが、不思議と「毛見」と響き合っている。【毛見・秋】