第三百九十七夜 橋本多佳子の「月光」ほか3句

 倉田紘文先生は、蝸牛社刊『秀句三五〇選 死』の編著者として、このテーマに取り組んでおよそ半年、悶々と過ごされたという。
 今、本書が刊行されて既に30年が過ぎた。そして平成26年、紘文先生はお亡くなりになられた。
 私が「死」のテーマに惹かれるようにして読み始めたのは、死も考えながら・・生きる、という思いが、後期高齢者となり転倒して手術して杖の身になったことで、気づいたからかもしれない。
 紘文先生の「解説」と、1句1句の丁寧な鑑賞から、答をいただいているように感じた。
 
 今宵は、『秀句三五〇選 死』から、それぞれの俳人の死観の作品を紹介してみよう。 

  月光にいのち死にゆくひとゝ寝る  橋本多佳子
 (げっこうに いのちしにゆく ひととねる)

 橋本多佳子(はしもと・たかこ)の俳句のきっかけは、北九州小倉の自邸櫓山荘での高浜虚子歓迎俳句会であった。虚子の俳句に惹かれ、杉田久女の指導を受けるようになり、ホトトギスに入会。夫とともに大阪へ戻ると、ホトトギスの「四S」の俳人の1人の山口誓子の指導を受けるようになった。誓子がホトトギスを去り「天狼」を創刊すると、多佳子もホトトギスを去った。掲句は、夫の豊次郎が病気で亡くなる直前の作。
 句意は、月光のさし込む夜、当時38歳の多佳子は病気の夫、もう長くないという夫の命にすこしでも側に寄り添っていたい私は、夫の布団に添寝しているのですよ、となろうか。
 「いのち死にゆく」と詠んだ多佳子のこころを思うだけで苦しくなる。哀しくなる。この句と同時作に〈死にちかき面(も)に寄り月の光るをいひぬ〉がある。
 俳人はここまで詠むのか、詠めたのかと思うが、作品として残したことで、多佳子の愛は不滅となった。【月光・秋】

  忌にこもるこころ野に出で若菜摘む  細見綾子
 (きにこもる こころのにいで わかなつむ)

 句意は、忌ごもりのこころがありながら、野に出て若菜を摘みましたよ、となろうか。
 万葉歌人の大伴家持に〈籠もりのみ居ればいぶせみ慰むと出でたち聞けば来なくひぐらし〉という一首がある。忌ごもりは、喪に籠もる一定の日数の7日、49日をいうが、淋しく暗い思いは今も昔も変わらない。【若菜摘む・新年】

  花の雨讃美歌死者を送りけり  島谷征良 
 (はなのあめ さんびかししゃを おくりけり)

 プロテスタント系の学校で過ごした私は、ことに、高等部での毎日のチャペルの30分が時折懐かしく思い出される。学生や教員が亡くなれば、〈主よ 御もとに近づかん〉の讃美歌を唱った。チャペルは学生全員が集まる講堂で、荘厳なパイプオルガンとともに厳粛な気持ちになった。
 
 句意は、4月の花の雨の降る日、教会で讃美歌を唱って、友を見送りましたよ、となろう。
 倉田紘文の鑑賞を、紹介しよう。
 「人の世のことごとに天なる自然は常に慈悲をもってつつんでくれる。喜びごとは花の日和を受け、そして悲しみごとには花の雨で弔う。」

 島谷征良(しまたに・せいろう)氏は、広島市の生まれ。友の死は、広島に落ちた原爆と関係があるのだろうか。【花の雨・春】

  死顔に涙の見ゆる寒さかな  大野林火
 (しにがおに なみだのみゆる さむさかな)

 この句も、倉田紘文の鑑賞を紹介させていただく。考えさせられた一文である。
 「終(つ)いの涙であろう。自らを悼むというよりも、それは残る者へのやさしさの涙であったろう。いくらやさしくても、いくら残してゆくのが辛くても、人はこうして結局はみな死んでゆかねばならない。
 死に継ぎ生まれ継いでゆくことの切なさの極みと、その宿命の冷厳さとをこの一滴の涙に見た思いがしたのであろう。」
 【寒さ・冬】

  凧なにもて死なむあがるべし  中村苑子 
 (いかのぼり なにもてしなむ あがるべし)

 句意は、凧は、何によって死ぬというのだろうか、凧は素手であるから何も掴むことはできない。さあ風とともに自らを空の高きところまで上がっていこうではないか、となろうか。
 「あがるべし」を、せめてもの志の貫きが感じられるのである、と倉田紘文は鑑賞している。