第三百九十八夜 中村吉右衛門の「冬の月」の句

 元禄15年12月14日、主君浅野内匠頭の仇討で、吉良上野介邸に赤穂藩士四十七士が討入をした日である。NHK大河ドラマ「赤穂浪士」を始め、忠臣蔵はタイトルを変えて作られた。歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」があり、初代中村吉右衛門は、大石内蔵助こと大星由良之助役を務めたという。
 
 私が歌舞伎を観たのは、今は亡き二代目中村吉右衛門が未だ中村勘九郎の時代で、二人の息子と共演した「連獅子」で、子獅子を谷底に突き落として器量を試すという、能「石橋(しゃっきょう)」を元にした歌舞伎である。
 見せ場は親獅子勘九郎と子獅子の勘太郎と七之助だ。子獅子の真っ赤な鬣(たてがみ)を振りかざして舞う毛振り(けぶり)の、重たげな頑張っている姿が可愛くて印象的であった。
 
 今宵は、俳句では高浜虚子の弟子であった初代中村吉右衛門の俳句を紹介しよう。
  
  うちあげて津の町急ぐ冬の月
 うちあげて つのまちいそぐ ふゆのつき)

 東京歌舞伎座、新橋演舞場、大阪松竹座、南座などの中央コースは長い公演だが、数日の公演で次の地へ移動する東コースと西コースの巡業があり、かなりハードな仕事である。

 句意は、興行が終わって、次の興行地の三重県津の町へと急いで向かっているとき、ふと見上げると冬の月が頭上に美しく輝いていましたよ、となろうか。
 「うちあげ」は、舞台など興行が終わることである。明治から大正、昭和の20年代というのは、どのような移動方法であったのだろう。飛行機も新幹線もない時代である。
 冬の月はどこか小さく遠く感じられ、寒さで冴えわたった天空に浮かぶ月はいよいよ美しい。【冬の月・冬】

  鬼やらひせりふもどきになりもする
 (おにやらい せりふもどきに なりもする)

 『ホトトギス 虚子と100人の名句集』から作品を紹介しているのだが、そこに、虚子は「氏の句は純粋率直、何の求めるところなく、何の衒(てら)うところもなかった。」という評があった。
 だが、歌舞伎となると人一倍の熱心さであったという。

 句意は、2月3日の「鬼やらひ」では、歌舞伎役者は大きな神社に招かれて壇上に立って、「おにはそと、ふくはうち」と叫びながら豆を撒く。ふと我にかえって、自分の声に注意をはらってみると、節がついているようだ、歌舞伎のものものしい科白回しに似ているようだ、ということだろう。
 観客に気づかれなかっただろうか・・観客は豆袋を掴むのに必死のようだから・・大丈夫だろう。
 〈破蓮(やれはす)の動くを見てもせりふかな〉の作品もあるように、何をみても歌舞伎の動きとなる。目に入るものは科白となる。秋から冬にかけて蓮は枯れて破蓮となり、葉の動きは止まっているから、さながら見得を切る動きとなる。
 歌舞伎役者ならではの、愉快な光景であるが、吉右衛門の普段の動作を、俳句の師の高浜虚子に教わった通りに、自らを客観描写した句かもしれない。【鬼やらい・冬】
  
  京が好きこの秋雨の音も好き
 (きょうがすき このあきさめの おとがすき)
  
 句意は、巡業地では京の町が好きだなあ、なんとなく心が落ち着く秋の雨も、京都の情緒をより深く感じさせてくれる、となろうか。
 忙しい歌舞伎役者だが、地方興行もわるくはない。公演が終われば、それぞれ心をほぐす場所が必要だ。ほっとする場所があり、ご贔屓があり、一年に一度会う客もいるだろう。
 吉右衛門は「この秋雨の音が好き」という。精一杯の力を出し切った舞台を終えたとき、秋の澄んだ雨音はずんずん心を沈めてくれるだろう。

 初代中村吉右衛門(なかむら・きちえもん)は、明治19年(1886)-昭和29年(1954)、東京浅草の生まれ。歌舞伎役者。ホトトギスの高浜虚子に師事し、句集『吉右衛門句集』、著書『俳句随筆 吉右衛門句集』ほか。