第三十一夜 石島雉子郎の「凧」の句

  旅人や泣く子に凧を揚げてやる  石島雉子郎

 句意はそのままの優しさの作品である。
 鑑賞してみよう。
 
 「旅人」は雉子郎である。救世軍兵士として常に、見知らぬ人の心に語りかけ、「耶蘇」と言われ「邪教」と言われても、雉子郎の方から温かい心を閉じることはない布教と伝道の生活。そんなある日の伝道途上での出来事である。
 凧揚げをしている子どもたちを見かけた。中の一人が上手く凧が揚がらないで泣きべそをかいている。昔は、遊びは子どもたちだけの世界で、直ぐに手伝ってくれる父や母は子どもの遊びの世界にはいなくて、兄たちも先ずは自分のことでせいいっぱいである。
 雉子郎は子に近づいてゆき、「ちょっとおじさんにかしてごらん」と言いながら、凧を上手に風に乗せ、ふたたび凧糸をその子に持たせた。しばらくは一緒に糸を繰り出しながら、だんだん高く揚がっていく凧を子どもと共に見上げている。
 子どもはいつしか泣きやんで、涙をこすった頬が汚れているけど、目はきらきらと輝き、口からは笑みがこぼれている。
 知らないおじさんと知らない子どもの心が触れ合った瞬間だ。
 いい句だな、と思った。
 
 石島雉子郎(いしじまきじろう)は、明治二十年埼玉県行田の生まれ。生家は旧家の足袋問屋の老舗。中学三年で学校を辞して角帯前掛姿の店員として働き始める。十六歳で高浜虚子門の俳人川島奇北の指導を受け、十七歳で俳誌「浮城」を創刊し、選は高浜虚子にお願いしていた。

 大店の商人として生涯を送るはずが、雉子郎の店舗の隣に救世軍の忍町小隊がやってきたことから、人生は一転する。貧しい人、虐げられた人、陽の当たらぬ人生の存在に、富める側にいる自分に、いたたまれぬ焦燥感を覚える人道主義の青年となった雉子郎は二十一歳で、救世軍に入った。
 一八六五年、英国のメソジスト教会の牧師がその軍隊的組織のもとに民衆伝道と社会事業を行うキリスト教団を創始、ロンドンに万国本営が置かれて各国に布教。日本救世軍は一八九五年(明治二十八年)に創立され、山室軍平を最初の救世軍士官に任命。その活動は、貧民労働者に対する伝道、廃娼、禁酒などの社会改良運動であった。年末には、社会鍋を吊して喜捨を乞う。そうした献身的生涯の救世軍兵士が石島雉子郎であった。
 
 「ホトトギス」では、同人として草田男、茅舎、たかし等と並び句を発表しつづけていた。
 昭和十五年、日本での救世軍の礎を築いた山室軍平は亡くなった。昭和十五年というのは、軍閥の圧制下にあり、俳句界でも新興俳句の俳人たちが何人も検挙されたりした時代であった。日支事変前後からキリスト教は邪教視され、救世軍の受難と苦悩はすさまじいもので、おそらくその苦悩が原因で病気となった雉子郎は、翌昭和十六年に五十四歳の生涯を終えた。
 救世団本営で行われた告別式に紋付羽織袴姿の高浜虚子が列席した。式場では故人の功績と美しい人柄を讃え、哀惜する弔辞を聞き、改めて俳人雉子郎の隠れた一面に敬意を抱いた。昭和十六年六月号「ホトトギス」に虚子の弔句が献げられた。
 
  散る花を悼む心も慌たし  虚子
 
 今回は、俳人石島雉子郎については吉屋信子著の『底のぬけた柄杓――憂愁の俳人たち』、「ホトトギス」、虚子関係の参考資料数冊の断片から紹介させていただいた。