第四百六夜 深見けん二の「白鳥」の句

 このところの冬晴れにつられて、2日続けて、菅生沼の白鳥を見に行った。ここは小白鳥の飛来地。
 深見けん二先生の「白鳥」の句を紹介しようと、確認のために『深見けん二俳句集成』を開いた。その中の第5句集『余光』は平成3年、結社「花鳥来」を立ち上げた頃の作品から始まっている。私たちが吟行句会というものに触れ、句会では師の作品に触れ、師の作品を採ることができずにいた頃でもあった。
 
 選んだ作品は、必ず選んだ理由を一人一人述べなくてはいけない。作品の良い点を的確にいうことは難しく、作ることと同時に作品の読み方も指導されていた。俳誌「花鳥来」では、また鑑賞を書く機会を一人一人に与えてくれた。
 編集の段階で毎回のように、電話がかかってきて、原稿の書き直しを指導された。
 かなり長い電話だったように思っていたが、出来上がった俳誌は、あらきみほの文体であった。
 「先生、どこを直して頂いたのでしょうか・・?」と、怖いもの知らずの初心者だった私は尋ねた。
 「いやあ、わからないように直すのですよ。」と、先生は笑いながら仰った。
 
 今宵は、結社「花鳥来」の初期の頃、深見けん二師の第5句集『余光』から紹介させていただく。

  声揃へたる白鳥の同じかほ
 (こえそろえたる はくちょうの おなじかお)

 句意は、湖の白鳥たちが、声を揃えて一斉に啼き出した。見ると、白鳥たちは同じ顔で啼いていましたよ、となろうか。
 
 よく見れば、一羽一羽は目の離れ具合も、黒い嘴の端の黄色い部分の色も大きさも、少しは違っていて、人間だったら美醜の違いはわかるかもしれない。
 白鳥たちは、首を伸ばして喧嘩をしているように啼くことがある。眠る姿、飛ぶ姿、首を背までくねくね伸ばして羽繕いをする姿は優美なうつくしさである。だが白鳥には激しさもあるように感じている。
 この作品は、湖で屯している光景ではなく、白鳥が隊列となって飛んでゆく直前の姿ではないだろうか。声を揃え、同じ顔となって、飛び立つ緊張の瞬間を捉えた措辞が「同じかほ」である。
 函館の大沼公園の大白鳥を見たときのものだという。【白鳥・冬】

  薄氷の吹かれて端の重なれる
 (うすらいの ふかれてはしの かさなれる) 

 超結社の連衆との「木曜句会」の、次回の兼題が「薄氷」だったということで石神井公園へ行き、いつものように、じっと眺めた。句に纏めてみると何だか物足りない。けん二先生は翌日、再び石神井公園へ向かった。

 句意は、薄氷が風に吹かれて割れて重なり、二重三重にも薄氷の端が重なっていましたよ、となろうか。
 
 薄氷を見るのは、石神井公園の道路を挟んだ奥にある三宝寺池。その三宝寺池の北側は、かつての石神井城の濠跡があり、その下の日の当たらない池の端には、2月頃までは薄氷が解けずに残っていたように記憶している。薄氷は、風に吹きよせられた枯葉や木片やおもちゃの赤いボールが閉じ込められていた。

 けん二先生は、1日目は、こうした様々な夾雑物に囚われたのかもしれない。それでは当たり前になってしまうと考えて、翌日、再び薄氷に佇んだ。
 そして、見て見抜いた後にのこされたものが、〈吹かれて端の重なれる〉という、薄い氷の切片であった。
 見ることから、見たものを捨てることの潔さを、この作品に思った。【薄氷・春】