第四百十二夜 高浜虚子の「行年(ゆくとし)」の句

 今日は12月28日、今年が終わるのは、もういくつ寝るとお正月、と唄われるように、あと数日となった。コロナのニュースが中国の武漢から流れて、なんだろう、と思っている間に、外出を控えること、マスクを付けること、ソーシャルディスタンス、リモートワークなど普段あまり耳にしなかったことに縛られる生活が始まって、間もなく1年を迎えようとしている。

 高浜虚子の作品に〈年を以て巨人としたり歩み去る〉がある。
 明治35年、正岡子規が亡くなった。「ホトトギス」の経営は虚子のままであるが、子規の双璧の弟子の河東碧梧桐が「ホトトギス」の選者を務めることになった。一方、虚子は小説家の道を目指して邁進していた。だが、選者を任せた碧梧桐が、新傾向俳句へと進んだこともあって、読者が離れてゆき、「ホトトギス」は経営不振に陥った。

 虚子が一番に考えたのは、子規と共に築いてきた「ホトトギス」であり、虚子一家の生活基盤でもある「ホトトギス」の経営の立て直しではないだろうか。
 俳誌「ホトトギス」は「私の衣食の途を求めたいため」に虚子自らが引き受けたものである。だから虚子にとって「運命に安んずる」の運命とは、切っても切れない「ホトトギス」のことであり、この事態を先ずどうにかしなければならなかった。

 明治41年、虚子は腸チフスにかかった。予後が悪かったのか、大正元年の11月に虚子は再び胃腸を病んで病臥が続き、大正2年のホトトギスは2月と4月を休刊した。
 
 こうした中で虚子は、大正2年、前年の「雑詠欄再開」に続いて、碧梧桐の新傾向俳句に対抗するために「守旧派宣言」をした。
 さらに、この体調の中で虚子は、6月27日に、麹町区飯田町喜多能舞台にて、「ホトトギス二百号記念文芸家招待能楽」を催した。
 「ホトトギス」2年8月号「此能を催すやうになりしゆきたて」には、「能が見たいが一度連れて行ってくれませんか」と、文芸家たちから日頃より言われていたことから虚子が発案したとあり、およそ350名の活躍中の文芸家たちが招待された。
 来会者名簿には、現代の私たちでも知っている、伊藤左千夫、泉鏡花、土岐善麿(哀果)、徳田秋声、岡本綺堂、島村抱月、与謝野寛・晶子、竹久夢二、久保田万太郎、松井須磨子、志賀直哉、森鴎外、鈴木三重吉の名が残っている。
 後に虚子は「この催しは実にホトトギスの運だめし」と述懐したほどで、ホトトギスの刷新は始まったばかりであった。
 
 この催しは「ホトトギス」主宰である虚子ひとりの力ではなく、もちろん、有力者たちの援助のおかげであったが、再び読者を呼び戻すきっかけとなった。
 「ホトトギス」の経営難、体調不良の最中に、虚子は「最難関のつり橋」を渡り終えたのだ。
 この大変だった1年が、次の作品の背景である。

 今宵は、虚子の「行年(ゆくとし)」の作品を見てみよう。

  年を以て巨人としたり歩み去る  『五百句』 
 (としをもって きょじんとしたり あゆみさる)

 句意は、1年という時の流れが、まるで巨人が大きな後ろ姿を見せながらのっしのっしと歩いてゆくように、去ってゆきましたよ、となろうか。【行年・冬】
 
 「年」を巨人に喩えたということは、虚子にとって大正2年という年は、上記に説明したように、まさに大変な年であったとともに、確かな手応えのある1年であったのだ。 

 星野立子の俳誌「玉藻」へ、虚子は創刊号から亡くなるまで書き続けたのが「立子へ」である。昭和5年11月号に「運命に安んずる」という文があるので紹介しよう。
 「人間はその日その日の出来事で、だんだんと運命づけられて来るものである。(略)安んずるというのは安心して眠っておるという意味ではない。その境遇に立ってその境遇より来る幸福を出来るだけ意識することだ。
 私にしたところで、『ホトトギス』というものを出しておることを、自分の荷厄介に感じたこともあった。他の天地に雄飛したいと考えたことも一再ではなかった。けれども私の運命は、遂に『ホトトギス』から離れることを得せしめずして、今日に至った。「無為無能にしてこの一筋につながる」といった芭蕉の言葉は頗る味わうべきものと思う。

 芭蕉の「無為無能にしてこの一筋につながる」は、決して諦めることでも引くことでもなく「自らを恃(たの)んで」ゆく道であろう。