第四百十五夜 与謝蕪村の「年の夜」の句

 今日は令和2年12月31日、大晦日。大三十日とも表記するということをすっかり忘れていた。一年の境目のこの日、年の夜、大年、年越、除夜と様々な呼び名がある。
 仕事をしている私は、年末は片付けと新年の準備で慌ただしいのだが、除夜詣は、俳人であるからには見て置かなくてはと、体験のために出かけたことが2度あった。
 2度目は、茨城県へ越してから、世界一という高さ120メートルの牛久大仏へ出かけた。道路が混んでいて、真夜中の12時近くにやっと着いた牛久大仏は、どうやら除夜の鐘は終わって、年越し南無阿弥陀仏カウントダウン&花火が派手に打ち上げられていた。

 今宵は、与謝蕪村の大晦日の作品を見てみよう。

  いざや寝ん元日は又あすのこと  与謝蕪村 『山本健吉基本季語五〇〇選』
 (いざやねん がんじつはまた あすのこと)

 句意は、1年の終わりとて、用事もあれば人の出入りも多く、賑やかであったが、人も去り、さて寝るとしようか、元日は人の出入りも多いであろうが、それはそれ、元日といっても明日のことだから、となろうか。
 
 『蕪村遺稿』集中の、安永元年12月の作である。蕪村の句は〈菜の花や月は東に日は西に〉とか〈月天心貧しき町を通りけり〉などのように、景の見えるわかりやすい作品である。
 この作品の淡々として飄々としたところが何とも言えない良さである。「元日は又あすのこと」と、明日の元日は1年の始めの重要な日ではあるが、蕪村は、今日の大晦日の夜を寝ることがまず今の一大事で、明日の元日のことは明日と、投げやりな言い方のようにも思わせるが、起きてから真剣に取り組もうという考えであろう。
 大晦日とは言わず「いざや寝ん」の措辞によって、大晦日の夜であることを感じさせている。作品の季語は「年の夜」である。すべてが普通の話しことばでありながら、直接には季語を詠み込むことはしない、テクニックを思わせる上手さである。【年の夜・冬】

 『山本健吉基本季語五〇〇選』の「年の夜」の季語の説明に、兼好法師著の『徒然草』がある。
 「つごもりの夜、いたふ暗きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の門叩き走りありきて、何ごとにかあらん、ことごとしくののしりて、足を空にまどふが、暁方より、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心細けれ」(第十九段)」
とあり、除夜のあわただしさと元旦の明けがたの静かさとを、対象的に書いている。