第四百十六夜 正岡子規の「年明く」の句

 令和3年1月1日、お正月である。例年、初日の出を見に早起きをしているが、今年は何故か起きることができなかった。勢いが必要かもしれない。
 コロナのニュースを目にしてからおよそ1年となる。
 昨日、令和2年最後の日の東京のコロナの感染者は1337人、今日、令和3年元旦の感染者は783人、この冬はコロナの大きなパンデミックがくるとの見立てを聞いてはいるが、実際のところ、何がどうなっているのか、どうしたら感染者になってしまうのか、さっぱりわからないまま、大方の人たちと同じように私もしずかに暮らしている。
 テレワークの娘もそろそろ10ヶ月となり、部屋は独占、妻であり母である私は、威張っている主人が2人いるような日々となった。もう1匹、可愛いから自発的にお世話してしまう犬がいる。

 だが、不思議なことに、私がこのブログ「千夜千句」を立ち上げたのは、令和元年の11月10日、コロナの始まる40日ほど前であった。営んでいた出版社蝸牛社は、俳句出版を多くしていたから本も資料もかなり多い。とは言え、毎日、違う作家と作品の記事を書くことは、なかなか時間がかかる。
 そうこうしているうちにコロナが起きた。家に閉じこもっていることは変わらないので、逆に、他の人は外出できているのにと羨むことなく、こつこつ書き進めることができている。今日、「千夜千句」は第416夜目である。
 
 今宵は、正岡子規の作品を、再び紹介しよう。

 子規の晩年は、脊椎カリエスを病んで寝たきりとなり、母や妹、虚子や碧梧桐、歌人の弟子たちの助けもあったが、堂々とした病人であった。

  蒲団から首出せば年の明けてをる
 (ふとんから くびだせばとしの あけておる)

 明治28年、子規は念願の日清戦争従軍記者として旅順まで行ったが、そこで講話成立の報を知った。帰国の船中で何度も大喀血となり、神戸に着くや入院した。退院し松山で静養して東京に戻った翌29年、腰痛が酷くなりカリエスの手術をした。以後臥褥がちとなる。この作品を詠んだ明治30年は、腰部の手術を受けた後であろう。

 句意は、ぐっすり眠れた夜で、朝、蒲団から首を出すと、隣の部屋で母と妹が正月の膳の準備をしているらしい声や匂いがする、ああ、年が明けたのだなあ、ということであろうか。
 
 子規の父親が隠居し、子規が家督を継ぐことになった5歳のとき、父は40歳で病没。それ以来、母親も妹律も、家督を継いだ子規を頼りにもし、ずっと子規の世話をしてきた。気丈な母であり妹であった。

  長病の今年も参る雑煮かな
 (ながやみの ことしもまいる ぞうにかな)
 
 子規は、明治29年から病褥にいたが、寝たきりになっても日本新聞社の社員のまま、原稿を書きつづけ給料をもらっていた。日本新聞社長の陸羯南は、子規が父のように慕っていた人であり、根岸の子規庵は、陸羯南宅の東隣にあり、何かと面倒をみてくれていたという。
 子規は、誰もが知っている健啖家で、勿論、好物はアンパンと柿だけではない。昼から刺身が食べたいと言えば、母や妹は、魚屋へ走った。

 句意は、長いこと病んでいる身ではあるが、今年も、あの旨い雑煮を喰いに行きたいものだ、となろうか。
 「参る」は古文で、行くである。

 数年前、1人で子規庵を訪れたことがあった。沢山の発見があった。一部屋は子規の寝たきりの病臥の場であり、襖を隔てた隣の部屋は、人が来れば集会の場、食事の場、母と妹の寝所であった。庭にはヘチマ棚があり、今もヘチマ水を採っていた。
 子規は、身体中に膿の出る穴があって、つねに包帯を代えたり消毒をしたが、余りの痛さに泣き声をあげたという。その穴の場所を印した図が貼られていた。
 学芸員の方にお聞きすると、「こんな辛い身体であれだけ食欲があったということは、やはり、若さだったのでしょう。」と言っていたのが印象的だった。
 アンパンを食べ、堂々と泣きわめき、何よりも最後まで文章を書きつづけた。俳句革新を成し遂げた。