第四百十七夜 高浜虚子の「二日」の句

 今日は、新年の二日である。年末に暇がなくて年賀状はいつものように箱根駅伝をバックグラウンド-ミュージックに書き始めた。私の母校はこのところ連勝していた青山学院だが、今年の往路は残念な結果となった。
 
 書き終えた賀状をポストに投函しに行ったのは、もう4時過ぎ。辺りは夕日が落ちそうな光を放っている。
 過日、見つけておいた夕日の沈む枯田まで寄り道しよう。夕日に向かって車を止めた。滅多にない冬晴れの夕日は眩いばかり。時折薄目にして光量を調節しながらじいっと約20分ほど、無事に太陽が地平線に沈むまで見届けた。
 これでよし。とハンドルを回すと、そこに夕日を負った富士山があるではないか。余りの眩さに気づかなかったのだが、あらっ! 太陽と富士山の、位置関係はどうなっていたのだろう?
 私は、夕日が沈んだあとの、置いてきぼりになっている富士山に出会えたことだけでいい、もう嬉しくなってしまった。
 家には、晩酌の支度を待っている夫を置き去りにしている。
 
 今宵は、高浜虚子が中村草田男を詠んだ「二日」の句を紹介しよう。
 
  例のごとく草田男年賀二日夜  『七百五十句』
 (れいのごとく くさたおねんが ふつかよる)

 句意は、毎年いつものように、中村草田男は、二日の夜に年賀にやってくる、であろう。
 
 草田男が「ホトトギス」を離れたのは、昭和21年、草田男が「萬緑」を創刊し主宰となってからである。
 虚子庵に、草田男が年賀に訪れるのは在籍していた間もずっとであったと思われるが、主宰者となった後も変わらずに、二日の夜に訪れていた。
 星野立子編『虚子一日一句』には、こう書かれている。
 二日に年賀に来る人はきまつてゐた。まづ謡の高橋すゝむ先生。そして中村草田男さん。然し草田男さんは明るいうちには見えることはまづない。夕餉の終つた後、「中村さんがお見えになりました」と取次いで来る。(昭和31年の作)

 無口な虚子と無口な草田男。だが、草田男は虚子先生の心を信じていた。虚子は草田男に、ホトトギスに収まりきれない詩人の魂を見てとってをり、草田男もまた、草田男を見ていてくれる虚子の心を感じとっていた。
 昭和14年「ほととぎす」6月号に、草田男の〈金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り(きんぎょたむけん にくやのかぎに きゃつをつり)〉を含む4句が、巻頭句となった。虚子以外の「ホトトギス」の作家たちを驚かせたと言われた作品でもある。この作品に虚子は、肉屋の肉のように、鉤に吊ってやりたいほどの憎き奴にも金魚を「手向けん(供えん)」としたところに季題「金魚」から感じられる俳諧があると鑑賞をした。
 「草田男君苦心の結果は漸くにして実りかけて来たように感ぜられる。」と言い、草田男が特有の句境を得たことに対して敬意とエールを送った。虚子は、「生活や心の苦悩を俳句にすることも俳句の近代化というのであろう」とし、俳句の道は一つではなく百川もあると述べた。
 草田男は、難解な表現の破調句でも、「其の句を作った時の自分の感じに一種の手応えがあれば、即ち真の実感から生まれた句であったらきっと先生に判って頂ける」と虚子を信じて、全身で俳句をぶつけた。
 
 私は、2人のこの件(くだり)の部分を、お互いの信頼関係を表す言葉として、最高に素敵だと思っている。
 だから、虚子が亡くなるまで必ず、正月二日の夜の賀客となって訪れたのであろう。