第四百十八夜 梅田美智さんの「年賀状」の句

 今日は1月3日、箱根駅伝の2日目。母校の青山学院大学は、2004年に原晋(はら・すすむ)を監督に招聘し、2010年に初めてシード権を獲得。2015年の第91回箱根駅伝において、悲願の総合初優勝を成し遂げた。翌2016年から2年続けて、全区間をトップで走るという完全優勝を成し遂げた。
 それ以来、テレビ観戦している私たちは、安心しきってテレビの前にいた。
 
 令和3年、2日の往路で青学大はまさかの12位であった。3日の今日、私はテレビの前に朝の8時から午後2時まで齧りついていた。往路優勝したのは創価大学であった。そして復路の今日も創価大は、最後の10区のゴール直前までずっと1番で走っていた。
 テレビ画面でも、創価大の苦しそうな表情が見て取れると感じた頃だった。2番手にいた駒沢大が、あと数キロでゴール、もう創価大で勝負が決まったと誰もが思っていたところで、逆転された。創価大は往路優勝、駒沢大が総合優勝となった。こんなこともあるのだと思ったが、夢と希望を残した。
 
 往路で12位だった青学大は、復路は8人抜きで4位となった。3位になってほしいという気持ちは卒業生皆の願いであったが、試合後の原監督は、監督である自分が諦めそうになったが、選手たちが頑張ったと称賛した。
 
 今宵は、2020年8月24日に亡くなられた梅田美智さんの作品を紹介しよう。

  半世紀逢はず忘れず年賀状 「青山学院大学ESS・OB会会報」より
 (はんせいき あわずわすれず ねんがじょう)

 句意は、学校を卒業して以来、もう半世紀も逢わずにいるが、友であったことを忘れたことはなく、年賀状のやりとりはしているのですよ、となろうか。
 
 誰にも、こうした友や恩師などがいて、そろそろ年賀状も終いにしようか、と考えることがある。梅田美智さんと、その後お会いすることはなかったが、年賀状ならぬメールでのやりとりが続いていた。
 楽しかった思い出は、「青山学院大学ESS・OB会会報」で俳句の感想を交わし、青学大が連続優勝した頃から毎年の箱根駅伝の日には「おめでとう」を交わしたことであった。
 こうしたお付き合いも、なかなか素敵だなあと思っている。
 
 梅田美智(うめだ・みち)さんは、青学大の9年先輩になる。どのようにしてお会いしたのか、もう40年以上も前なので朧げである。おそらく、「青山学院大学ESS・OB会会報」を立ち上げるとき、同学年のヒロコ・ムトーさんに連れられて最初の会合に参加した日であろう。お互いに俳句をしていることで、会報の俳句欄に毎号、俳句を載せてもらうことになった。

  New Year haiku gathering
   my heart leaping
    a touch of lipstick. 『deepening green』
  
  紅うすく引きて楽しや初句会
 (べにうすく ひきてたのしや はつくかい)

 また俳句とともに、英語の「haiku」も詠んでいた。いつも忙しくしている私だが、英文科だったので自分の俳句を英語で詠んでみたいと願っていた。だが「いつか教えてね」と言ったメールの2日後の、昨年の8月26日に亡くなられた。知らせてくださったのは、息子さん。お母様のメールのアドレスに載っている人に伝えてくださったのだ。

 今日、「青山学院大学ESS・OB会会報」の編集長がお聞きになった、梅田美智さんの亡くなられた様子を知らせてくださった。
 箱根駅伝の今日、この一文を書いて、梅田美智さんとやっとお別れができた。