第四百十九夜 阿部怜児さんの「臘梅」の句

 臘梅の花も、ちらほら咲き始めているころであろうか。関越自動車道の練馬インターの近くに住んでいたこともあって、私は、父を連れて秩父までよく走った。1月には、長瀞からロープウェイで宝登山ロウバイ園へ行った。
 ロープウェイを降りて、武甲山など秩父連山、秩父盆地を見渡しながら宝登山を歩けば、3000本のロウバイがむんむんと香を放っている。これほどのロウバイを見たのはここ宝登山だけだ。

 今宵は、怜児さんの2つの句集『橋』『天守』から作品を紹介させて頂く。

  ひと震へして臘梅の香を放ち  『橋』
 (ひとふるえして ろうばいの かをはなち)  

 句意は、臘梅の木がふっと震えたように感じた、その瞬間、臘梅の花は香を放ちましたよ、となろうか。
 
 「花鳥来」では、冬には小石川後楽園の吟行が多く、門を入るとすぐ近くにある1本の臘梅の木を、先に着いた連衆が囲むようにして覗いている。遠くからでは、ぼうっとした色合いだが、とくに、朝日や夕日の光の加減で、何とも言えない黃の色となる。

 「ひと震へして」とは、眺めている怜児さんが臘梅の香を感じたとき、風が吹き、臘梅の木の微妙な揺れに気づいた。臘梅の花弁は、他の花と違ってロウをまぶしたような固さを感じるから、花が揺れたのではないだろうが、「ひと震へして」と捉えたことで、あえかな臘梅の花が鮮明になった。
 対象を捉える感性と描写力に脱帽した。【臘梅・冬】

  寒晴や父と書寫山圓教寺  『橋』
 (かんばれや ちちとしょしゃざん えんきょうじ)

 句意は、寒晴のある日、姫路市にある標高371メートルの書寫山山頂にある圓教寺に行ってきましたよ、となろうか。
 
 書寫山は、約1千年前に性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれ、西の比叡山と言われている。そこに圓教寺があり、西国第二十七番の霊場として多くの人が参拝に来るという。
 怜児さんは当時、第一線での勤務の最中で海外に出ることも多かった。正月休みに実家に戻った折に、参拝し御朱印を頂いてきたのであろう。お父様も俳人であるとお聞きしていたから、吟行であったかもしれない。
 この句に惹かれるのは、「書寫山圓教寺」という名の効果もありそうだ。句の形、調べも決まっている。【寒晴・冬】

  熱燗やあの頃はみな美少年  『橋』
 (あつかんや あのころはみな びしょうねん)  

 怜児さんは、「花鳥来」「青林檎」の仲間である。最初にお話したのは夏の総会であったように覚えている。印象的だったのは、「初めまして。アベレージ(average)の阿部怜児です。」という挨拶であった。背が高くてカッコイイ! しかも標準を意味するアベレージである筈がないことは、その後の作品の数々でわかった。

 「美少年」と言えるのは、現在が充実しているからこそ。久しぶりに会う昔の仲間との忘年会での、笑い顔、飲みっぷり、話の豊かさ、表情の全てが美しい年輪となっている。【熱燗・冬】
 
  引算を試さるる母蝶の昼  『天守』
 (ひきざんを ためさるるはは ちょうのひる) 

 第2句集は、怜児さんはお父様を亡くされ、お母様の最期を看取られたときの哀しみの作品に溢れている。最期の看取り、その姿を俳句に留め得たことはすばらしいと思った。
 母は一時の苦しみのなかで子を産んだ。無論、子育ては楽しい。一方、子は父や母が老うて死にゆく姿を真っ向から見ることは辛いことかもしれない。
 
 掲句はその過程である。
 あれほど矍鑠としていた母。その母が近頃あやふやな言動が多い。病院での認知症の検査は、足算や引算、漢字の読み方、記憶のチェックなどがあり、付き添う息子の怜児さんの前で行われる。足算はうまく出来た。引算はまごついているようだ。
 「かあさん頑ばれ! ほら10-7だよ。もっとすごい計算だってできていたじゃないか。」
 怜児さんは、横から口出ししたくなる。お医者さんの前で、こんな筈ではなかったのに、と悔しくもなる。
 診察室の窓の外には、蝶がひらひら飛んでいる。【蝶・春】
 
 阿部怜児(あべ・れいじ)は、昭和24年、兵庫県神戸市の生まれ。東京大学農学部卒。平成4年、深見けん二師と同じ会社に勤務し、社内の俳句部で指導を受ける。平成8年、「花鳥来」入会。平成16年、「青林檎」入会。現在「花鳥来」の会員・編集委員。「青林檎」同人。俳人協会幹事。第1句集『橋』、第2句集『天守』。