第四百二十一夜 森澄雄の「侘助(わびすけ)」の句

 俳句を始めたばかりのころ、侘助を知った。わが家の庭には椿が数本植えてあって椿は好きな花の1つである。好きな花を追いかけるのは、俳句のテーマとして追いかけるのだが、ある数年は落椿ばかりを追って、庭園や旧家の庭先など好きな椿を巡って、茨城県五浦にある岡倉天心の天心記念五浦美術庭にも行った。
 以前ほど、追いかける迫力が随分と減ってしまったことがなんだか悲しいのだが。

  年暮るるとて侘助の五つ六つ  森 澄雄  『蝸牛 新季寄せ』
 (としくるるとて わびすけの いつつむつ)

 句意は、そろそろ年末だなあと思って、庭の侘助を5、6輪ほどの枝を剪って活けましょう、となろうか。
 
 侘助は、どこか沈んだ白色であり、椿に比べると、花も細い枝も葉も小柄という風情である。森澄雄は、〈除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり〉の句を詠んだ愛妻家。年の暮れの忙しい妻を思いやった夫の森澄雄が、庭の侘助を選び、5、6本の枝を剪って妻に渡したのだろう。そう推測してみると、その日の澄雄の気分に沿うことができるようである。
 森澄雄は、加藤楸邨の「寒雷」に師事、石田波郷に私淑、後に「杉」を創刊主宰する。「千夜千句」第97夜に登場。

  侘助の落つる音こそ幽かなれ  相生垣瓜人 『カラー図説 日本大歳時記』
 (わびすけの おつるおとこそ かすかなれ)

 侘助を初めて見てから、40年近く経って、茨城県守谷市に住むようになりご近所付き合いを始めた方の家で、庭に植えられた侘助椿を久しぶりに出合った。満開のころで賑やか咲いていたが、1本を手折らせてもらった。
 
 句意は、侘助の落花にたまたま出合ったが、音がしたのか、なんとも幽かな音を立てて落ちましたよ、となろう。

 椿もそうであるが、侘助もまた、賑やかに咲いている姿より、剪って活ける方が、却って花のひとつずつが美しく見えるように思う。
 作者の相生垣瓜人(あいおいがき・かじん)は、明治31年、兵庫県姫路市生まれ。水原秋桜子、阿波野青畝に師事、後に「海坂」を百合山羽公と共選した。「千夜千句」第246夜に登場。
 
 次に紹介するのは、詩人・エッセイストである薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)の「侘助椿」のエッセイの一部である。侘助の名の由来、花の特色が、余すことなく的確に捉えている。
 あらきみほ編『毎日楽しむ 名文365』より、転載しよう。

 「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭(いっそうてい)氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)」侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。
 
 それはともかくも、侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲(ししざき)」のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身(しょうじょうしん)」をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫(ふる)はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々(なみなみ)と掬んだところで、それに盛られる日の雫はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心から酔ひ足(た)つてゐる。」
 侘助は冬の季題。椿は春の季題だ。