昭和21年羽田書店刊行の『小諸百句』は、昭和19年年9月から昭和21年10月までの約2年間に詠まれた百句を制作順でなく新年から順に並べてある。
『虚子五句集』の年代順に慣れた私には最初戸惑いがあったが、何度か読んでいくうちに、長野県小諸の地の自然の中での虚子の暮らしが、季節の流れを通して見えてくるようである。
虚子は序に、「鎌倉の天地恋しきこともあれど小諸亦去り難き情もあり。」と書いた。
今日は、令和3年1月7日、人日である。「人日」は、中国から来た呼び方で、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日)とした。
7日はまた、正月料理のご馳走に飽きたころでもあり、七草粥を食べる。
今宵は、高浜虚子の「人日」の句を見ていこう。
何をもて人日の客もてなさん 『小諸百句』『六百五十句』 昭和21年作
(なにをもて じんじつのきゃく もてなさん)
この作品は、『小諸百句』の第1句目である。制作順ではなく、新年から順に並べてある。
句意は、今日は人日である。五節句の1つであり七草粥の日でもある。さて、遠くからはるばる訪れた客をどのようにしてもてなそうか、となろうか。
小諸へ疎開した虚子の許へは子どもたちは勿論のこと、東京からも関西からも北陸からも多くの俳人が訪れる。
この日訪れたのは岡安迷子はじめ土筆会の面々で、迷子は虚子の小諸での物資補給や一時ホトトギスの仮事務所をするなど世話役をした。
『六百五十句』の同日の作品に〈有るものを摘み来よ乙女若菜の日〉〈霜やけの手にする布巾さばきかな〉の2句があるように、鎌倉から虚子夫婦と一緒に疎開してきた2人のお手伝いさんたちが、近くへ若菜摘みに出かけたり、七草粥の準備をしたことがわかる。
土筆会の人たちは、こうした心尽くしや虚子先生との語らいも楽しみにして訪れるのだが、選をしていただける虚子先生との句会ができることが何より嬉しいことであった。虚子もまた、誰彼と客があれば、喜ばせるためもあろうが、虚子自身も意気込んで俳句を作っていたという。
このように、彼らへの何よりのもてなしが句会であったのだ。【人日・新年】
七草に更に嫁菜を加へけり 『五百五十句』昭和12年
(ななくさに さらによめなを くわえけり)
この句の詞書に「川崎利吉息安雄結婚披露」とある。川崎九淵(川崎利吉は旧名)は、松山の生まれ。小学校の同級生であった高浜虚子の兄池内信嘉の勧めにしたがって上京し、虚子が大正初期に鎌倉能楽堂を作ったときの仲間でもあった。後に能楽太鼓の名手となり、能楽界初の人間国宝となった。
句意は、目出度い人日であるこの日に、七草粥にもう1つ嫁菜をくわえましたよ、となろうか。
1月7日に結婚した、川崎利吉の息子安雄の結婚披露への祝句である。嫁菜は、キク科の多年草で野菊だる。花の名に、「嫁」の字をつけたのは、可憐な美しい花だからであろう。
人日に食べる七草粥に「嫁菜を加へけり」と詠んだことで、川崎利吉の家族に可愛いお嫁さんを迎え加わったことを、心からお祝いしている虚子である。【嫁菜・春】
俳句は、自然の季題をこんな風に詠むことができる。