第四百二十四夜 三橋敏雄の「ピカソの青」の句

 熊谷守一の『へたも絵のうち』を読んでいると、次の箇所が飛び込んできた。
 
 二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい。下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういってきました。
 結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことにはなりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。
 
 熊谷守一は、蟻のデッサン帳を見て以来のファンである。庭に筵を敷いて、その上に横たわって、一日中蟻の動きを眺めていたという。そうした時代があった。見て、見て、見抜いてのデッサンであり、デッサンを重ねたのちの、一本の太い線で描かれた、デフォルメされた蟻の絵だったり、猫の絵だったり、花の絵だったり、色彩であったりする。
 その守一の絵から伝わってくるのは、私には〈やさしさ〉のようであった。

 また、守一はこのような言葉もある。
 「好きな絵も、尊敬する絵かきもいませんが、ピカソは好きなほうです。ピカソの絵はどこにあってもピカソだからです。」

 今宵は、ピカソを詠み込んだ作品を紹介してみよう。

  少年ありピカソの青の中に病む  三橋敏雄 『まぼろしの鱶』
 (しょうねんあり ぴかそのあおの なかにやむ)

 「ピカソの青」というのは、その後のキュービズムと呼ばれる抽象画の画家と同じとは思えない画風で、青色を主体とした作品群を「青の時代」と呼んでいる。死、苦悩、絶望、貧困、悲惨さは社会から見捨てられた弱者たちが主題になっている。とりもなおさず、ピカソ自身が青という苦悩の只中にいたからということに他ならない。
 「少年あり」の措辞から感じるのは、少年から青年に、青年が大人へなろうとする時代の心の葛藤であろう。
 
 句意は、ピカソの青の時代の作品の中に、同じような苦悩の中でもがいている少年がいますよ、となろうか。
 
 三橋敏雄は、戦前の新興俳句無季派の渡辺白泉の「風」に参加、戦後は西東三鬼主宰の「断崖」、山口誓子主宰の「天狼」同人として活躍した。 無季派の俳人は、季語の代わりになるような言葉、例えば「戦争」「都会」「白」などで、モットーは新詩精神であった。
 
 この作品は無季である。季語の代わりに主題としたのは、「青」でなく、もっと強烈なインパクトのある「ピカソの青」ではなかったかと思う。

  ポロシャツにピカソの片目海開き  澤田緑生 『遣跡』
 (ぽろしゃつに ぴかそのかため うみびらき)

 句意は、海開きの日、浜辺のポロシャツ姿の男が目を引いた。そのポロシャツの胸にはピカソの片目が大きく印刷されていましたよ、となろうか。
 
 「ピカソの片目」とは何だろう。ピカソの写真は、一方の目を手で覆っているものをよく見る。ピカソは特殊な視覚(立体視 認知)を持っていて、その特殊性がキュビズムの絵画に生かされたと言われている。
 その特殊能力をもつ片目が「ピカソの片目」で、男は、真夏の浜辺でカッコイイと思わせたいのだ。【海開き・夏】
 
 澤田緑生(さわだ・りょくせい)は、大正7年、名古屋市の生まれ。水原秋桜子門。昭和39年、「鯱(しゃち)」を創刊主宰。