第四百二十五夜 藤後左右の「スキー長し」の句

 『エベレストを滑った男 冒険に生きる』は、日本のプロスキーヤー、登山家の三浦雄一郎の著書から、1970年、エベレストの山頂直下の8000メートルのサウスコルからスキーで、それもパラシュートによる滑降したときの、ヒラリーが寄せた言葉があった。
 ヒラリーは、ニュージーランドの登山家で、1953年、イギリスの登山隊に参加して、テンジンとともにエベレスト初登頂に成功した人。そのヒラリーはこう言っていたという。
 「そうか、あのミウラ君がとうとうやるのか。(略)人間はときに不可能だと思うことにもチャレンジし続けてきていたではないか。(略)
 彼はクレージイかもしれない。しかし世の常識を越えてその時代に不可能だといわれることにぶつかってゆく人は、みんなそういわれてきた。」

 1970年と言えば、スキー大好きだった私は、何故かスキーには興味のない九州男児と結婚して、1歳と2歳の年子が家中を駆け回っていたころであった。
 三浦雄一郎の富士山直滑降、エベレストのサウルコス8000メートル地点からパラシュートとともに滑降する姿を、テレビ画面で夢のように観ていた。
 今も、山肌を滑り降りるのにパラシュートを着けていることは、何とも不思議であるが、ブレーキの役割をするのだと聞いたように覚えている。

 スキーの俳句を歳時記から探してみた。現代のスキー事情と違うかもしれないが、私が、中学3年から大学卒業までの約8年間を夢中になって遊んだスキー事情と歳時記の中の景は、さほど異なってはいなかった。
 
 今宵は、スキーの作品を紹介してみよう。

  スキー長し改札口をとほるとき  藤後左右 『現代俳句歳時記』角川春樹編
 (すきーながし かいさつぐちを とおるとき)

 山口誓子の〈長袋先の反りたるスキー容れ〉のように、スキー板は自分の背よりかなり長かった。今回、ネットで今のスキー板を見たが、スキーの先端の形も、長さも異なっていて、昔のスキー板は今では粗大ゴミのような書き方であった。
 
 この頃のスキーは、私の時代とそう変わっていないようだ。とにかく長かった。改札口を通り抜けるときも、電車に乗り込むときも、潜るようにしたと思う。
 雪国に出かけるには上野から列車に乗る。しかももの凄い混雑である。私は、当時のボーイフレンドにスキー板の袋を担いで上野駅まで送ってもらっていた。

 藤後左右(とうご・さゆう)は、明治41年-平成3年、鹿児島県生まれ。京都大医学部卒の医者。「ホトトギス」「京大俳句」を経て「天街」を創刊、代表同人であった。

  大雪のスキー列車の夜をいねず  水原秋桜子 『新歳時記』平井照敏編
 (おおゆきの すきーれっしゃの よをいねず)

 学校が冬休みになって出かけるので、スキー列車はスキー板とリュック姿のスキー客でごった返している。1番の思い出は、座席に座れないことは無論で、床にギュウギュウ詰めになって座って何時間も過ごしたことだ。眠るどころではなかった。
 だが、早朝に到着すると宿に直行して、白いゲレンデに飛び出した。
 山形県の蔵王のスキー場が好きで、大学時代は休みの冬と早春に出かけた。

  スキーヤー伸びつ縮みつ雪卍  松本たかし『新歳時記』平井照敏編
 (すきーやー、のびつちじみつ ゆきまんじ)
 
 「雪卍」とは何だろう。卍には、横に流しながら走るドリフト走行という意味もあるという。上手なスキーヤーは、山の上からS字を描くようにして降りてくるが、方向転換で曲がるときにはスピードを制御しながら回転する。それが雪卍なのではないだろうか。
 辞書には「雪卍」という言葉はないから、松本たかしの造語かもしれない。
 
 松本たかしは、能役者の修行中に肺を病み、能役者の道を諦めて高浜虚子の下で俳句修行をした。能役者としての身体全体を使っての舞の動きに熟知しているから、スキー場でのスキーヤーのS字滑降の動きを「伸びつ縮みつ雪卍」と捉えることができたのであろう。

 ここ数日の冷えは厳しい。ハイウェイは雪に長いこと閉じ込められたり、冬でも暖かいと思われている九州まで雪が積もっているという。スキー客にとっては雪は嬉しいはずだが、今年はコロナの影響もある。