第四百二十六夜 深見けん二の「冬芽」の句

 石神井公園の三宝寺池の奥に池面に張り出すようにして辛夷の木がある。真冬なのに銀色の木の芽が出ていることに気づいたのは、やはり俳句を始めてからであった。
 それからは、冬の雑木林や公園の寒林をゆくときは、木の芽も探すようになった。
 季題「冬芽」は、傍題として、「冬木の芽」「冬萌」がある。翌年の春に萌えだす芽は、たいてい秋のうちにでき、寒さに耐えられるように硬い鱗片でおおわれて冬を越す。これを冬芽という。常緑樹にもあるが、落葉樹の葉が落ち尽くした枝の冬芽はことに目立つ。
 また、「冬萌」は、冬に木や草の芽が伸びだすことで、冬の暖かさ、暖かい場所を感じさせる。
 
 内村鑑三に「寒中の木の芽」の詩がある。1年間の樹々の姿がある。
 
  1・春の枝に花あり      2・花散りて後に
    夏の枝に葉あり        葉落ちて後に
    秋の枝に果あり        果失せて後に
    冬の枝に慰めあり       芽は枝に顕はる        
    
  3・嗚呼憂に沈むものよ    4・春の枝に花あり
    嗚呼不幸をかこつものよ    夏の枝に葉あり
    嗚呼希望の失せしものよ    秋の枝に果あり
    春陽の期近し         冬の枝に慰めあり

 今宵は、「冬芽」の作品を紹介させて頂く。
 
  月山の空に浮かべる冬芽かな  深見けん二 『花鳥来』
 (がっさんの そらにうかべる ふゆめかな)

 東北を旅すると、樹々の丈がとても高く感じられる。新緑の頃も、紅葉の頃も、トンネルの中を走り抜けるようで爽快な気持ちになる。私が行った真夏の月山は、樹々がこんもりとして涼しかった。
 
 掲句は、晩秋ではないだろうか。紅葉は終わってすっかり冬木になっている。月山の山肌の樹々には冬芽ができている。見上げれば、深々とした紺碧の空と、枝枝と、冬芽たちだけが目に入りましたよ、という句意になろうか。
 青い海に浮かんでいるように青い空の海原に、冬芽を浮かべた。

  一つづつ旧居の冬芽たしかめて  深見けん二 『余光』
 (ひとつづつ きゅうきょのふゆめ たしかめて

 この作品は、平成5年、岩手県北上市の日本現代詩歌文学館へ「花鳥来」の連衆と一緒に行ったときに詠まれた句である。山口青邨が亡くなり、奥様が亡くなり、青邨の旧居「雑草園」は日本現代詩歌文学館へ移築された。その雑草園を訪れた。
 見に行くというよりは、会いに行くような気持ちであったことが、掲句から痛いほど伝わってくる。
 句意は、かつて何度も訪れては句会をしたりご指導を受けた旧居であり庭である。あの頃と同じ気持ちで、あの木の冬芽、あの木の冬芽、と、懐かしさで一杯になりながら、一つ一つ確かめながら庭を巡りましたよ、となろうか。

  雨滴冬芽の数を置きにけり  稲畑汀子 『ホトトギス 新歳時記』
 (あましずく ふゆめのかずを おきにけり)

 句意は、雨が止んで、冬芽を見ると、冬芽の一つ一つに雨滴が置かれていて、冬芽と雨雫の数はちょうど同じでしたよ、となろうか。
 
 「ホトトギス」主宰の稲畑汀子氏には、数を詠み込んだ〈三椏の花三三が九三三が九〉があるが、この作品も、冬芽を見た瞬間に「あっ、冬芽と雨雫は同じ数だわ」と思ったに違いない。
 
 新年早々に夕焼と冬木を眺めに出かけたが、その後のコロナの非常事態宣言は更に厳しくなり、車で動くのも逡巡する。取手の先の蛇沼の雑木林の冬景色はまだ見ていない。きっと、櫟や楢の木には冬芽が出ていることだろう。