第四百二十七夜 永井東門居の「寒の落日」の句

 寒の入となって小寒の最中。あれほど冬晴れの続いた正月が過ぎて間もなく寒波が訪れた。茨城県南は寒いだけだが、少し北側、少し山沿いにゆくと雪の影響がでている。
 
 冬になり、お正月を過ぎたころから寒くなる。「おお、寒っ!」で終わっていた言葉が、季題を学ぶことで少しづつ宇宙の運行がわかり始めている。
 歳時記は、カルチャーセンターで深見けん二先生から薦められた『カラー図説 日本大歳時記』5巻を常備している。カラー写真が入っていることで画期的な便利さを感じた。最近ではインターネットでも詳しい解説と写真があるが、やはり書籍がいちばんいい。
 理由は、同じ季節の季題も同時に見たり、作句する際に探すことができることだろうか。例えば、「寒」の近くには、「寒雀」や「寒鴉」もある。

  寒は、冬期でもいちばん寒い時期に当たり、1月5日ころから小寒から1月21ころまでの大寒を経て、2月3日の節分(立春の前日)までのおよそ30日間をいう。「寒」は期間を指す時候のこといい、同じ時候の「寒し」「寒さ」は冬の寒さをいう。すこし違う。
 「寒」は「寒の内」「寒中」の全体をいい、「寒四郎」は寒に入って4日目。「寒九(かんく)」は、9日目をいう。
 
 今宵は、季題「寒」の作品を見てゆこう。

  声走る寒の落日見に来よと  永井東門居 『現代俳句歳時記』
 (こえはしる かんのらくじつ みにこよと)

 句意は、ねえねえ、早く出ておいでよ、夕日が落ちるところだよ、寒の夕日だよ、と走りながら大声で呼んでいますよ、となろうか。

 子どもであっても、大人であってもいい。冬至の夕日が落ちるのが早いことは20年前に追いかけてわかっていたが、令和3年、この正月過ぎの5日に見た「寒の夕日」の眩さ美しさ、あっという間であったことが、この作品に出合ったことによって心から納得した。
 庭から見えるのであれば、すぐにも大声で家族に、「外(と)にも出よ触るるばかりの春の月」の中村汀女の句のように、「外にも出よ」と呼びかけるに違いない。

 永井東門居は、小説家、随筆家の永井龍男。東門居は俳号。

  原爆図中口あくわれも口あく寒  加藤楸邨 『まぼろしの鹿』
 (げんばくずちゅうくちあく われもくちあくかん)

 埼玉県東松山市にある丸木美術館へは、関越道の東松山インターから車で10分、電車では東武東上線森林公園駅からタクシーで12分ほどのところにある。関越道の近くに住んでいたので、東松山インターを降りるまではスムーズであったが、今から40年前の、丸木美術館は何もない野原を走ったように覚えている。
 美術館に入ると、最初に観るのが壁一面の大作『原爆図』の屏風であった。抽象画の作品は強烈であった。火の海の中の群衆、焼けただれた男女、いたいけな子どもたちが、抽象画となって描かれていた。

 掲句は、『原爆図』の人物たちはみな口を開けていた。口中が爛れていたこともあろう、苦しくて口を開けて呼吸をしていたからかもしれない。超大作の巨大な絵画の中の、誰もが口を開けている光景と原爆の残酷さ無残さに驚愕した楸邨は、気がつくと、自分の口も開いていましたよ、という句意になろうか。

 楸邨が『原爆図』の大作を観たのは、1月の寒の内であったのだろう。それは偶然であろうが、二句一章の作品の下の句の「われも口あく寒」の措辞によって、実際に原爆が落とされたのは昭和20年8月6日の真夏であったが、『原爆図』を観たときの凍るばかりの心象を見事に表現した。

 令和2年の夏、私は、夫の故郷の長崎に墓参に行き、妹夫妻と長崎美術館に行った。そこにも、様々な焼けただれた出土品、原爆直後にアメリカ側の写した原爆被害者の写真とともに、丸木位里と俊の『原爆図』が展示されていた。