第三十六夜 斎藤夏風の「青邨忌」の句

  青邨忌冬の挨拶はじまりぬ  斎藤夏風
 
 鑑賞は次のようであろうか。
 「青邨忌」は十二月十五日。中七の「冬の挨拶」は青邨門下であることの誇りの証のようである。十二月になれば必ず思い出し、仲間同士の挨拶では青邨師の話題になる。そうしたことが「冬の挨拶はじまりぬ」である。十二月の吟行句会では、青邨を偲んでの作品を詠むことが多く、関東地方ではことに冬晴れが多いことから、「青邨晴れ」という言葉も生まれているほど。

 山口青邨が亡くなったのは、昭和六十三年の年末。年が開けると平成元年に変わったときだ。残された結社「夏草」の会員は多く、会員の、今後の俳句の道筋を考えるために同人代表の古舘曹人は三年ほど「夏草」を続けた後、やがて、有馬朗人主宰の「天為」、黒田杏子主宰の「藍生」、斎藤夏風主宰の「屋根」、深見けん二主宰の「花鳥来」の四つの結社に分かれた。
 
 斎藤夏風(さいとうかふう)は、昭和六(1931)年、東京生まれ。昭和二十九(1954)年に山口青邨の「夏草」に入会、同人、編集人となる。昭和六十一(1986)年に「屋根」を創刊主宰。
 
 私は平成元年に、当時住んでいた近くの光が丘のカルチャーセンターの深見けん二教室に通い始めていたので、自然に「花鳥来」に入会して深見けん二に師事することになった。斎藤夏風主宰の「屋根」にも在籍していた。虚子の孫弟子、青邨の孫弟子の私たち会員の全員が、俳句を詠むこと以外にも虚子俳句、青邨俳句を読み、鑑賞し、さらに文章にして書くことを学んできた。
 
 大好きな一句を、第一句集から紹介しよう。
 
  埋立地の北風(きた)にひからぶ不思議なパン  『埋立地』
 
 第一句集『埋立地』は、高度成長まっただなかの頃だと思われ、東京湾が埋め立てられ、至るところが掘り返されては新しいビルが建てられていた時代。北風の吹く年末、忘年会の帰りかも知れない。埋立地を通りかかるとパンが落ちていた。きっと勿体ないと思うほどの分量で捨てられていて、干からびていた。少し前には食糧難だったのに、作者は、これほど変貌した世相を「不思議なパン」と捉えたのだろう。