第三十七夜 松本たかしの「花月夜」の句

  チチポポと鼓打たうよ花月夜  松本たかし『鷹』

 句意は次のやうであろう。
「この美しい花月夜の晩こそ、鼓をチチポポと打って楽しもうではないか。」

 たかしの妻である俳人つや女は『松本たかし集』(現代俳句文学全集)のあとがきに次のように書いている。
「庭前の芝生にゴザを敷いて毎年庭桜のお花見を致しました。そんな時のたかしは、灯籠に灯を入れさせ、鼓を出して調べたり、仕舞を舞って見せてくれたり、落花の下で我家ながらまるで芝居の舞台を見てゐるやうでした。」
 そのような一夜の、月がかかっている見事な花月夜に、花を愛で月を愛で、遊びをせんとや生まれけん、と、鼓をチチポポと打つのであった。鼓を打てば花は咲き増えるかしらん。散りはじめるのかしらん。ともかく、鼓によって花月夜の宴は完璧となり、花と月と鼓との三位一体の気魄の美が完成したのである。

 松本たかし(まつもとたかし)は、明治三十九(一九〇六)年に東京神田猿楽町の生まれ。祖父松本金太郎、父松本長という代々江戸幕府所属の宝生流座付きの能役者の家系である。
 満五歳で能の稽古を始め、小学校卒業後は専ら能の稽古に励み、いくつかの舞台を踏んだが、十四歳のとき肺尖カタルを患ってからは療養生活となる。その頃から父の長(ながし)の「ホトトギス」を借りて読んだり、父の能役者仲間の句会「七宝会」へ参加したりしていたが、十七歳で虚子に師事し始める。

 さらに神経衰弱を患ったことから能の道を諦めたたかしは、療養のために鎌倉市浄明寺に移り住み、父の長から将来を託された虚子の許で、俳句の道に専心することになった。
 同じく病気のため画業を諦めて俳句に専心した川端茅舎とたかしは、句兄弟として特に親交厚く、共に四S以後のホトトギスの代表作家として俳壇で活躍した。茅舎はたかしを、作品に漲る香気から「生来の芸術上の貴公子」と評した。昭和二十一年「笛」を創刊主宰。三十一年に没する。
 
  追悼句に虚子は、「牡丹の一辨欠けぬ俳諧史」と寄せた。

 たかしの作風は端正で気品が高い。能における、何百年もの間に洗練されてきた五七調の流麗な大和ことばの詞章、絢爛豪華な唐織の能衣装の美、鍛錬を重ねることで身につく型、身のこなしなどの技である。能役者にはならなかったが、能の世界で培った美意識の全てを、俳句という型の言葉に込めることで、たかしは俳句の自在の舞いを得た。それは、中世の王朝貴族の没落や牡丹の崩落などに見る高貴さと哀しみの誇りの高さであった。