第四百二十八夜 金子兜太の「白い花盛り」の句

 今日は、BSテレビで、1945年制作のアメリカ映画『白い恐怖』を観た。監督は、アフフレッド・ヒッチコック、主演は、イングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペック。原題の『Spellbound』には「魔法にかかった」「魅了された」という意味である。
 グレゴリー・ペックが演ずるエドワーズ博士は、白地に縞のある模様を見ると発作を起こす奇妙な病癖を持っていた。じつは別人を騙っていて事件性があるらしい。ひと目で恋に落ちたバーグマン演ずる神経科の医師コンスタンスは、彼の無実を証明する。
 1945年は、筆者の生まれた年。もう75年前の映画だったのだ。
 
 白が過去を紐解くキーワードの1つになっていて、邦画では『白い恐怖』というタイトルであった。
 
 今宵は、「白」を詠み込んだ作品を探してみた。紹介してみよう。

  人体冷えて東北白い花盛り  金子兜太 『蜿蜿(えんえん)』
 (じんたいひえて とうほくしろい はなざかり)

 東北地方の北国では、春がいっせいに訪れる。春いちばんに顔を出す蕗の薹の後には、桜の花、桃の花、梨の花、林檎の花たちが、ほぼ同時に咲き乱れる。だが暖かさはこれからである。人々は重ね着をし、辺りの空気はまだ冷え冷えとしている。
 「白い花ざかり」の「白」は、空気感の冷たさを増幅させる表現であろう。

  頭の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋 『白い夏野』
 (づのなかで しろいなつのと なつている)

 「頭」は、「づ」と読む人と「あたま」と読む人がいるという。私は、句の調べからも「づ」と読みたい方である。
 「夏野」はこれまでの夏の季語であると考えず、「白い夏野」として考えると、高屋窓秋の目指す作品になる。
 
 句意は、野原のような広々とした空間から、どこか清新な、なにか何か新しいことが始まりそうなイメージが湧いてきましたよ、となろうか。
 
 昭和8年に、水原秋桜子が「ホトトギス」を離れたことがきっかけとなって、集まった若い俳人たちの俳句は新興俳句と呼ばれ、さらに、昭和9年には有季定型と無季定型に分裂する。高屋窓秋たち無季容認派は、詩的インパクトの強い言葉、都会的で社会的な言葉を季語の代わりに作品に用いるようになった。
 「白い夏野」は、白の真っさらな状態は始まりや出発といったスタートを印象づける。 

  ひと拗ねてものいはず白き薔薇となる  日野草城 『転轍手』
 (ひとすねてものいわず しろき薔薇となる)

 日野草城は、京都大学在学中から「ホトトギス」の作家として頭角を現していた。京都を訪れた高浜虚子は日野草城と会い、力ある若者が出てきたことを喜んだ。間もなく草城は、「京大俳句」に入り、「旗艦」を創刊した。
 この2つの結社は、関西の新興俳句運動の拠点となった。客観写生の句が中心の「ホトトギス」で草城は、才気煥発な清新な感覚の作品を詠んでいたが、やがて、「十七音の詩が俳句である」として、新興俳句の「新詩精神(エスプリ・ヌーボー」を標榜するようになる。
 
 句意は、若いタイピストに、上司が注意するとたちまち拗ねてしまって、まるで、人を寄せ付けない潔癖さを思わせる白薔薇のようにツンとしてしまいましたよ、となろうか。
 
 当時、新しい女性の職業として人気があった「タイピスト」も、俳句に詠まれ、季語の代わりになった。草城は、無季俳句も作ることもあったが、この作品は「薔薇」が季語である。「白」は、潔癖さを表している。

  冬晴に応ふるはみな白きもの  後藤比奈夫 『祇園守』
 (ふゆばれに こたうるはみな しろきもの)
 
 句意は、冬晴の中で、その太陽の光に反射している諸々のものは、みな白く輝いていますよ、となろうか。
 
 例えば、木の葉の1枚1枚、草の葉も花弁も、その上に宿っている露の1粒1粒も、どれもが白い輝きを放っている。
 この作品が、自然の中の「白」の本然の姿をもっともよく表しているのではないかと感じた。