第四百三十夜 深見けん二の「冬の梅」の句

 日本画家平山郁夫の著書『生かされて生きる』に、次の文章を見つけた。
 
 スケッチは、対象物に自分をぶつけることが大切だ。無心になると言い換えてもいいし、無我夢中になると言ってもいい。あるいは集中して描くと言ってもいい。自然や文物や仏像や人物に対して、心の中で対話をしながら対象物から感じ取ったことを線で思うままに描写してゆく。
 《スケッチとは、全人格の練磨となる》 
  対象物をどうスケッチしようと構わないわけだが、スケッチとは、それまでの持っている知識と技術を総動員し、その対象物をどう理解するか、を問われているのである。
 花を見て、その花が怒っているように見えれば、そう描くにはどうすればいいのかを考えればいいのだし、花が笑っているように見えれば、笑っているように描きたいとひたすらエンピツを動かせばいいのである。
 表現力とか描写力を鍛えるには、なによりも「自分の意見(考え)」を持つことこそ大切なのである。
 
 画家も俳人も、作り上げる過程がどこか似ている、と思ったことがある。とくに、自分の俳句が煮詰まったときなど、無性に美術館に行って名画に会いたくなった。
 今、私が毎日ブログ「千夜千句」で、名句を紹介していることも、もしかしたら、名画に会いにゆき、どうやって描いたのだろうかと考えることと同じことかもしれない。
 
 今宵は、ちらほら見かけるようになった「冬の梅」の句を見てみよう。

  枝の先いつも風あり冬の梅  深見けん二 『余光』
 (えだのさき いつもかぜあり ふゆのうめ)

 季題「寒梅」は、寒中に咲かせる梅をいい、また広く、冬に咲く梅を総称して「冬の梅」という。

 梅、桜、椿をよく見にゆく寺院がある。昨日は今年になって初めて寄ってみたが花はまだのようである。だが見上げると、桜の枝々は、冬芽が賑やかになってきている。花芽ももう直ぐだ。よく剪定されている梅は、近づくと枝から花芽が出そうな気配に膨らんでいる。
 冬の梅というと、1月の「花鳥来」吟行句会の第3土曜日のころは、場所によっては1輪の梅を見ることがあった。
 
 句意はこうである。梅の木に花を見つけたけん二先生は、枝の先にはいつもこのように冷たい風が吹いていますが、これが、冬の梅なのですよ、となろう。
 
 私には、ほとんど気づかない風だが、咲いている1輪の花弁がほんの微かに揺れている。1月の風は冷たい。毎年のように見ているから先生はご存知だが、寒の最中、いつも風ある枝の先に咲いているのが、冬の梅である。
 冬の梅は、きっと見てくれていることを喜んでいるにちがいない。

  天白く花も消ぬべく寒の梅  山口青邨 『寒竹風松』
 (天しろく はなもけぬべく かんのうめ)
 
 この作品も寒中の梅である。
 句意は、寒晴の日の光の届くものはみな白く輝いている。梅の花弁の色も、日の輝きに溶け込んで消えてしまいますよ、となろうか。

 「天白く花も消ぬべく」と、寒晴の日の強さを言い留めた。
 
 一昨日の、第四百二十八夜の「千夜千句」では、「白」をテーマに句を紹介した。後藤比奈夫の〈冬晴に応ふるはみな白きもの〉の句意が、まさに「冬晴の中で太陽の光に反射している諸々のものは、みな白く輝いている」であったのだ。