第四百三十一夜 正木浩一の「滝懸る」の句

 平成4年は、出版社蝸牛社が、『秀句三五〇選』シリーズ、『蝸牛 俳句文庫』シリーズ、『蝸牛 新季寄せ』などの俳書を多く手掛けていたころで、多くの俳人の方々の俳句を読んで、名句を集めていた。
 正木浩一さんが、癌になって僅か1年で50歳の命を全うされたことは、俳句雑誌に書かれた妹正木ゆう子さんの記事で知った。病院で看病の奥様がベッドで添寝をなさっていたことも、最期まで、俳句を詠みつづけていらしたことも、正木ゆう子さんの筆は、兄の死に至るまでの姿を、きっちり書き留めたことの勇気の凄さを思ったことであった。
 
 このブログ「千夜千句」を始めて今日は第四百三十一夜である。俳句出版に携わり、俳人の端くれでもある私は、書物であれ、実際の出合いであれ、関わることのできた俳人の俳句を紹介してみよう、というのがブログをはじめた意図である。

 今宵は、正木浩一の『正木浩一句集』から晩年の作品を紹介しよう。
 
  永遠の静止のごとく滝懸る
 (えいえんの せいしのごとく たきかかる)

 正木ゆう子著『現代秀句』(春秋社)は、自身の218の愛唱句を鑑賞したもので、兄正木浩一の2句の1句が掲句である。この著で、ゆう子氏は、かつて書いた文章を引用している。「滝」をこのように捉えた文章は、無論、私には書けない。
 正木浩一の作品のために、ここでも引用することをお許しいただきたい。
 
 「自分の死後もずっと、まるで不変のもののように落ちつづけるであろう滝。しかし、その滝もただ一瞬一瞬を在り続けているにすぎず、滝のすべてはこの一瞬にある。今の瞬間だけが永遠の顕現するリアルな場なのだ。それなら、その今を共有している自分もまた永遠なるものの一部だと、兄は滝を見ながらそんな認識に打たれ、そして安堵したにちがいない」
 
 句意は、まるで永遠に静止しまっているかのように、滝はここに存りつづけていますよ、となろうか。
 
 滝の水が落ちるのは、目にも留まらぬ一瞬である「静止という時」の膨大な連続であるというのだ。見えないけれど「永遠の静止」は確かに在るのだと、浩一は、死も、永遠の静止の一部であるならば、自分の死も永遠の一部と言える。
 身体の痛み、死への心の痛みを、生きつづけたいという無念の想いを、滝の「永遠の静止」を認識したことで安堵し納得させた。【滝・夏】

  冬木の枝しだいに細し終に無し
 (ふゆきのえだ しだいにほそし ついになし)

 句意は、病院の窓からの冬木なのか、心の中の冬木なのか、毎日のよう眺めている冬木の枝の先はだんだん細くなっていて、枝の先の、その先に枝はもうありませんでしたよ、となろう。

 この作品は、闘病生活の最期の絶唱であるという。〈花柊痛み無きとき我も無し〉の句もあり、痛みつづけた痛みが無い時、痛みが無くなる時は、即ち、作者の浩一が無くなる時であると詠んだ。
 「終に無し」は、我が命もまた無くなっている、ということなのだ。【冬木・冬】

 正木浩一(まさき・こういち)は、昭和17年(1942)-平成4年(1992)、中国青島(チンタオ)生まれ。昭和47年、能村登四郎に師事、「沖」に入会。翌年には「沖」新人賞受賞。「沖」同人。平成元年、第1句集『槇』を上梓。同3年、発病、1年間の闘病生活の中から珠玉の作品を生んだ。没後、妹正木ゆう子編の遺句集『正木浩一句集』を刊行。