第四百三十二夜 奥坂まやの「馬鈴薯」の句

 平成23年、奥坂まやさんの第3句集『妣の国』を頂戴してから随分と経ってしまった。好きな作品に印をつけたまま、お礼状を出すことが出来ていたか定かではない。
 久しぶりに手にとって、見てゆくと〈いつせいにマスクをはづす一家かな〉の句に出合った。まるでコロナ禍の今の世上を詠んでいるようで不思議な気がした。
 
 作句を始めて1年余りで鷹新人賞を受けた時の言葉が印象的であろ。
 「一つ一つの季語は、不思議で凄くて、面白い。吟行や袋回しをやっていると、自分で自我だと思っていたものが融けてゆく。俳句ってもしかしたら季語へのお供物なんだと感じ始めている自分に、自分が一番驚いている。」
 
 まやさんの「季語へのお供物」という表現には少し驚いたが、何だかわかるような気がしている。
 
 私は、虚子の晩年の弟子の深見けん二先生の「花鳥来」で学んでいる。強い言葉で指導することはないが、吟行で、詠みたい季題(季語)を見つけたときの師は、例えば梅の花とか沼の鴨の前に長いこと佇んでいて動かない。まず「季題を見つける」、心が季題と通うまで「じっと見る」、どのように描写するかを「じっと考える」が基本であろうか。

 季題と心をひとつにする、季題発想をする、ということは、つまりは桃の花の季題をどのように生かすかという、まやさんの「お供物」と同じであるかもしれない。「供える」には、役立てるという意味もある。
 
 今宵は、奥坂まやさんの第3句集『妣の国』から作品を見てゆこう。

  万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり  
 (ばんゆういんりょくあり ばれいしょにくぼみあり)  

 馬鈴薯はじゃがいも。野菜つくりが趣味の夫の収穫する馬鈴薯はかなり凸凹の姿で台所へやってくる。まやさんの作品に照らしてみると、万有引力に負けて凹んでいるのであろうが、落下の法則の林檎と、地中に育つ馬鈴薯とは違う法則であろう。
 
 だが俳句をよく見ると、「万有引力あり」と「馬鈴薯にくぼみあり」と2句1章で、まやさんは、ぽんと言い放っているだけである。
 「馬鈴薯のくぼみ」を「万有引力のせい」だと読み手に思わせたところが、まやさんの「面白がる」個性かもしれない。【馬鈴薯・秋】

  曼珠沙華曼珠沙華ひと泛きにけり 
 (まんじゅしゃげまんじゅしゃげ ひとうきにけり)

 句意は、たとえば埼玉県日高市にある「巾着田」の曼珠沙華の里で、川がぐるりと囲む広々とした地に500万本も咲く曼珠沙華の中をゆく人たちは、曼珠沙華の花に膝の辺りまで覆われている。さながら赤い花の海に泛んで漂っているようですよ、となろうか。
 
 この作品を見た瞬間、「やったー!」と心で叫んだ。「曼珠沙華曼珠沙華」と重ねたことで長い茎の上に同じ背丈に咲く曼珠沙華が海のように見え、「ひと泛きにけり」の描写は、その上に漂う何万もの「見物客」である、見事だと思った。【曼珠沙華・秋】

  海は今しづかに月光の器  
 (うみはいま しづかに げっこうのうつわ)  

 句意は、目の前の海は今しずかに凪いでいる。凪わたっている広い海のさざなみを月の光がちらちら輝かせ、その光景はさながら「月光の器」のようでしたよ、となろうか。
 
 滋賀県近江の琵琶湖を、〈たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり〉と詠んだのは、歌人の河野裕子である。琵琶湖を「昏き器」と捉えているので、まやさんのこの作品に、河野裕子さんの短歌を思った。
 だが、まやさんの「月光の器」には明るさと大きな広がりがある。【月光・秋】 
 
 まやさんの、「季語へのお供物」の俳句はどれも、飯島晴子さんから「季語が喜んでくれるわね。」と言ってもらえるに違いない。

 奥坂まや(おくさか・まや)は、昭和25年(1950)、東京都生まれ。立教大学文学部人類学部卒。昭和25年、俳誌「鷹」入会、藤田湘子に師事。翌62年、鷹新人賞。平成元年、鷹俳句賞。第1句集『列柱』で第18回俳人協会新人賞受賞。句集は『列柱』、『縄文』、『妣の国』。著書に『鳥獣の一句』ふらんす堂、『飯島晴子の百句』ふらんす堂がある。