第四百三十三夜 夏石番矢の「降る雪」の句

 今朝の9時過ぎ、いつものようにスーパーへ買物に行こうと車のドアを開けようとしたとき、小雪がぱらぱらと降ってきた。曇天であったが、雪の予想はなかった。そのままフロントガラスに跳ねる白を楽しみながら店に入り、レジの人に、外は小雪がふっているわよ、と告げた。次に銀行に立ち寄り、隣接の宝くじ売場の人にも、今日は小雪ね、と話し込む。
 かつての母のように、見知らぬ人に声をかけてしまう老女の入口にいる自分を感じていた。〈だれかれに告ぐや小雪の降りしこと〉〈たれぞ待つ小花のやうな小雪かな〉と、口づさんだ。
 だが、帰り道はもう白い雲と青空が見えている。そうだったんだ。先程は小さな雪雲が通り過ぎたのだ。
 
 今宵は、雪の句を紹介してみよう。

  降る雪を仰げば昇天するごとし  夏石番矢 『猟常記』
 (ふるゆきを あおげばしょうてん するごとし)

 夏石番矢(なついし・ばんや)は、昭和30年、兵庫県生まれ。高柳重信に師事し、前衛俳句雑誌「俳句評論」に参加。戦後生まれの最も革新的な俳人と言えよう。
 蝸牛社時代、『蝸牛俳句文庫 高柳重信』の著者として、難解な高柳重信を素晴らしい解説によって、解りやすい一書に仕上げてくださった方である。
 
 掲句は、筆者には解釈ができそうにない番矢作品群の中で、雪の降るすがたが自然な形で見えてきた句である。
 句意は、空から降ってくる雪をずっと眺めていると、上から下への動線がいつの間にか逆になって、降っている雪も眺めている作者もだんだん上へ上へと天へと登っていくようでしたよ、となろうか。
 
 「昇天」の語は、「雪」と同じくらいに1句の中で重要な役割をしている。「昇天」は、私たち読み手に「雪とともに天へ登っていく」という心持ちに、自然にそう思わせてくれる言葉である。錯覚かもしれないが、滝の流れ、風のそよぎ、などにもこのような錯覚を覚えることがあるのではないだろうか。
 
 私は、この作品の季語は「雪」であり、雪の降り方が「昇天」という錯覚を導きだしたのだと、そんな風に考えたい。
 
  雪の上に雪降ることのやはらかし  西東三鬼『西東三鬼全句集』
 (ゆきのうえに ゆきふることの やわらかし)

 西東三鬼は、明治33年、岡山県生まれ。日野草城らとともに、戦前の「旗艦」「京大俳句」に拠り新興俳句の旗手となり、「俳句は詩である」として、〈兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り〉など無季俳句の可能性を追求した。戦後は、〈枯蓮の動く時きてみなうごく〉のように、自然を凝視した有季定型の作風へと戻った。
 
 掲句は、戦後の作品であろう。じつに穏やかである。晩年に〈春を病み松の根つ子も見あきたり〉の句があるが、例えば病臥している部屋から眺めた雪景色かもしれない。三鬼の視線は、雪空でもなく降っている雪でもなく、積もった雪の庭をじっと見詰めている。
 
 句意は、積もっている雪の上に次から次へと降ってくる。雪片は、風に吹かれ落ちては羽毛のように降りてくる。その雪片たちの何とふうわりと柔らかなことであろう、となろうか。

 戦前と戦後ではあるが、同じ革新陣営の作家の作品を紹介してみた。