第四百三十五夜 大須賀乙字の「雁鳴いて」の句

 令和3年20日の今日は大寒。昨日今日、名に違わぬ気温の低さと風の強さと寒さである。朝日と夕日の茜色は濃く美しく、下村非文に〈大寒の力いつぱい落つる日よ〉の句がある。
 
 大正9年1月20日は、大須賀乙字の忌日である。明治41年、乙字は、論文「俳句界の新傾向」の中で、「現今の俳句界に新傾向あるを認める」と述べて、碧梧桐の〈思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇〉句に触れた。以降、碧梧桐は自分たちの俳句を「新傾向」と呼ぶようになり、この理論によって新傾向唱導の道を進むことになった。
 このように私の中では、大須賀乙字は俳論家の認識が非常に強かったから、じつは、乙字俳句を考えるのは初めてである。

 今宵は、日本近代文学体系56『現代俳句集』の『乙字句集』より大須賀乙字の作品を紹介しよう。

  雁鳴いて大粒な雨落としけり
 (かりないて おおつぶなあめ おとしけり)

 句意は、雁が鳴きわたってゆく空から、ちょうど、大粒の雨がぱらぱらと降ってきましたよ、となろうか。【雁・秋】
 
 「大粒な」の「な」は、格助詞の「の」と同じで「大粒の雨」となるが、「な」とすることによって詠嘆の意が込められた。雁が鳴いて大粒の雨を落とした、という形になっているが、そこが乙字の工夫したところであり、表現上の技巧であるという。
 乙字の自解はこうである。
 「雁そのものよりも雁来るころの気象に包まれた気分を詠んだので、雁が雨を落としたという主観が働いたとは意識していなかった。流れ雲が雨を落としていったと普通に言う言葉をそのまま使ったに過ぎない。或る時、雁が頭上近く鳴きわたったとき驚いて面を上げると一、二滴雨がおちた。その時の気分を覚えていたので詠んだのである。」(「俳句表現の古今井」より)

  火遊びの我れ一人ゐしは枯野かな
 (ひあそびの われひとりいしは かれのかな) 

 句意は、少年のころ、枯野でひとり火を焚いて遊んでいたことがありましたよ、となろう。
 
 この句は、過ぎし日をなつかしみ淋しむ句であり、乙字の代表作である。
 補注には、大江瑠光宛の書簡に、乙字はこの句とともに次のように書いている。
 「これは、小生の少年時の姿です。こういう叙景でない叙情的の句は数多く作るものではないようです。敢えてそこを覗かず自然と産まるる時のあるのを待つ方がいいとおもいます。」
 これは、乙字の作句態度を示す発言であった。【枯野・冬】

  森うしろ染めて暮るゝに囀れる
 (もりうしろ そめてくるるに さえずれる)

 句意は、夕茜が森のうしろを染めながら、そして茜色に染まりながら暮れてゆく森の中では小鳥たちが賑やかに囀っていますよ、となろうか。

 なんという美しい光景だろう。森の夕焼けの茜色の一部始終と小鳥たちの春の囀りは、まるで、大舞台の森のフィナーレのごとしである。【囀・春】

  干足袋の日南に氷る寒さかな
 (ほしたびの ひなたにこおる 寒さかな)  【寒さ・冬】

 句意は、洗濯して干した足袋が日なたでコチンコチンに凍るような寒さですよ、となろうか。
 
 「日南」は、「ひなた」と読むか「ひなみ」と読むかという迷いがあるようだが、「ひなた」としておく。足袋はがっしりした造りだからであろうか、日に干すと、厳しい寒さというわけでなくカチンカチンとなる。この句は、病床から句会へ投句したもので、病で動けない自らの状態の淋しさも籠められているように感じる。
 乙字の絶句だという。【寒さ・冬】
 
 乙字は、新傾向の口火を切った俳人であり評論家ではあるが、徐々に、碧梧桐の新傾向とは異なってきて、やがて河東碧梧桐や荻原井泉水と決別した。決別の理由は承知していたが、乙字俳句を読もうとしなかった私は、乙字俳句が主観を極力排した自然観照の色彩が強いものであることは知らなかった。
 
 今日が乙字忌であり、全集を引っぱり出し、村山故郷氏の懇切な注釈と補注に救われながら、紹介できたことが嬉しい。

 大須賀乙字(おおすが・おつじ)は、明治14年(1881)-大正9年(1920)、福島県生まれ。東京帝国大学卒。明治41年(1908)「アカネ」誌上に俳論を発表し、新傾向俳句運動の口火を切る。俳句は河東碧梧桐に師事するが、のち碧梧桐と対立、『石楠』『懸葵』などで俳論家として活躍した。著書に『乙字句集』『乙字俳論集』など。