第四百四十一夜 臼田亜浪の「墓起こす」の句

 臼田亜浪(うすだ・あろう)は、明治12年(1879)-昭和26年(1951年)、長野の生まれ。法政大学卒。初め新聞界に入るが、俳誌『石楠』を創刊、主宰し、俳句に専念した。高浜虚子・大須賀乙字の影響を受けながら、独自の俳論を展開した。新傾向と保守との中間派として多くの後進を育成。『石楠』からは大野林火、篠原梵、栗生純夫、田中弥助など多くの門人が育った。句集は、『亜浪句鈔』『旅人』『白道』『定本亞浪句集』『臼田亜浪全句集』など。

 『石楠』の門人で、〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉の名句をもつ篠原梵は、師の臼田亜浪を句集『旅人』評の中で次のように書いている。
 「先生は、生活上は俳句の専門家でありながら本質は専門家でない、「親方(マイスター)」でなくて「永遠の徒弟」であり、作家として修行時代と遍歴時代を死ぬ時まで続ける底(てい)の人」であると。
 
 今宵は、大正初期の俳壇で、高浜虚子の「ホトトギス」派と河東碧梧桐や荻原井泉水など新傾向派の中間派に位置する「石楠」の臼田亜浪の作品を紹介しよう。
 
  墓起こす一念草をむしるなり  『亜浪句鈔』
 (はかおこすいちねん くさをむしるなり)

 「墓起こす一念」とは、朽ち果てた先祖の墓参りをしたとき、絶対に父母の墓を再興すると心に決めたことであり、「草をむしるなり」とは、そうした決意で、一人黙々と草をむしっていますよ、という二句一章の作品であろう。
 『近代俳句の鑑賞と批評』で大野林火は、この亜浪作品を、おそらく事実を詠んでいるのではなくて、虚構の作と思わせるように詠んだのだろうとしている。
 虚構の作品に仕立てたことで、不思議に迫ってくるものがあるという。荒れた墓地の草を汗水たらしてひたすら草をむしっている姿は、俳句へ向かう姿勢も、亜浪の生きてゆく姿そのものであるという。
 
 この作品の季語は、「草むしり」でも亜浪のひたむきさは伝わると思うが、大野林火は、季語は「墓参」であるという。「墓参」ならば、作品に大きな目標があることを思わせてくれる。
 大正5年の作品だから、石楠社を設立したばかりだから、勿論、目標と言うには俳句の道だ。

  鵯のそれきり鳴かず雪の暮  『亜浪句鈔』
 (ひよどりの それきりなかず ゆきのくれ)

 亜浪の代表作の1つで、大正9年の作。第一書房刊『俳句文学全集 臼田亜浪篇』に自解がある。一部を紹介する。
 
 雪をかぶった三本五本の大欅、谷へなだれてゐる雪の篁、中津川の水声は、それらの枝枝をかすかにおののかせて響いて来る。階下の往来には人影もない。
 と、ピーピーと、四辺の寂寞を破って鋭い鳥叫び、雪がはらはらと散った。はて、何鳥だろう、鵯らしかったが・・としばらく耳を済ましたが、唯それきりである。夕暮のとばりはいよいよ濃くなりまさって、しづけさの底深く我を忘れた。
 「それきり鳴かない、鵯、雪の暮。」と心に沈めて繰り返す瞬間に、この句が成った。
 
 のちに亜浪は、あのとき鵯があと二声三声と鳴いたら、この句は出来なかったかもしれない、と言ったという。
 本当にそうかもしれない。一声だったから、特別に心に残ったのであろう。俳句の契機というものは、まさに瞬間的なものなのだ。
 
 わが師深見けん二は「言葉として授かる」と仰る。亜浪が授かった言葉は「それきり鳴かない」であろうか。