秋の灯にひらがなばかり母の文 倉田紘文『慈父悲母』
句意は次のようであろう。
「病室に届いた母からの手紙を開けてみると、平仮名ばかりで書かれていましたよ。」
この作品は、十九歳で師事した高野素十の俳誌「芹」で、〈秋の灯にひらがなばかり母へ文〉という句とともに、初巻頭となったうちの二句である。だが、第一句集には〈秋の灯にまちがひ多き母の文〉の句を真ん中に三句が並んで収められている。巻頭作品には入れなかった「まちがひ多き」の句を句集には載せたのだ。不思議なほど真つ正直な方である。
この頃の紘文は入院中であり、さらに五歳の子を亡くしたばかりであったという。平仮名で書かれた手紙は、平仮名しか書けないのではなく、子を亡くして悲しんでいる紘文・・大人である自分の子の紘文を、慰めるようにあやすように「ひらがな」で認めた母の文であるように感じた。
この作品に私が最初に触れたのは、三十年ほど前である。そのときは、昔の女性は達筆というわけでもない人が多かったので、母親の子への愛のやさしさを読み取っただけであった。今、再び句集を手にして、『慈父悲母』というタイトルを想った。「慈母」「悲母」は同じ意味であるが、母の子への愛は慈悲であり、「慈」という楽を与えるものだけでなく、とくに「悲」という苦を取り除く意味を強調したかったのだと感じた。
素十の言葉は、「平仮名で書く母の文、それは全く悲母という言葉にふさわしいのである。あるものは只母と子との愛とその姿とだけである。この句々はそんな美しい感銘がある。」
ある時、「衣を着せずに申し上げます。俳句が下手になった様な感じを受けます。しっかりして下さい。素十」という手紙を、紘文は師素十より受け取った。師の素十も紘文も凄い! この文を恥じることなく、隠すことなく、紘文は、句集に載せ、俳誌に載せている。
そして次号の「芹」で、紘文は再び巻頭を得た。生涯、師の言葉を作句上の指針としているのであろう。羨ましいほどの師弟関係であると思う。
このとき巻頭となった作品の一つが次の句である。
渦二百渦三百の春の潮
第二句集『光陰』には、次の言葉がある。
「俳句には相撲と違い横綱などはない。まして取り組んで勝負を決するというようなものではなく、自分と自分の心との闘いである。が、しいて相手をあげようとすれば、それは春夏秋冬の季を以て泰然と我々の前にある大自然ということになるかも知れない。そして泰然自若たるこの大自然と静かに四つに渡り合うことが、俳句における写生道かとも思う。素朴に、誠実に、そして謙虚に。
自然との深い対峙から逃げて、小手先の小主観に流れてはいけない。」