「猫の恋」の俳句を考えていたとき、もう随分と昔、平成19年刊の『あちこち草紙』を、友人の作家ヒロコ・ムトーさんから戴いていたことを思い出した。俳人の土肥あき子さんは句と文章、画家の森田あずみさんは猫の絵という三つのコラボである。
森田あずみさんは、ヒロコ・ムトーさんの『野良猫ムーチョ』『I LOVE CAT&LOST CAT』の挿絵を描いた方なので知っていた。
本を開いた。俳句と文章と猫の挿絵のコラボの見た目の空間の具合、俳句と文章はほとんど互いに異なることを書いてあって、三つは離れているようで、何かを深く考えさせてくれる。
今宵は、土肥あき子さんの俳句を『あちこち草紙』より紹介させていただく。
猫の子が真面目に膝を揃へけり
(ねこのこが まじめにひざを そろえけり)
句意は、まだちいちゃな猫の子が、生真面目な様子で、お利口さんして、膝を揃えてこちらを向いていますよ、となろうか。
「猫の子」「子猫」は春の季語。子猫も子犬も生まれたばかりの柔らかさといったらない触り心地である。赤ちゃん時代はとてもやんちゃだけれど、この作品のように、何かの拍子にきちんと膝を揃えて座っていることがある。
何か考えているのだろうか。おそらく何も考えていないだろう。だが何という可愛らしさであろう。
「猫の子」の季語で、「真面目に」「膝を揃へけり」と詠んだ俳人は初めてのように思う。
猫には、どうやら内猫または家猫(飼猫)と外猫(外で餌を与えている猫がいるようだ。そして、飼猫も、外に出さない家猫と、自由に外に出て自由に帰ってくる猫がいるようである。
本著に〈飼猫も準飼猫も冬日向〉の句があったが、「準飼猫」は外猫のことで、ご飯時だけ食べに来る野良猫のことだろう。
猫好きのヒロコ・ムトーさんも一時、内猫として正式に飼っている猫の他に、ガレージにやってくる猫たちにもご飯を上げていた。また去勢の手術もしてあげていたし、病気になれば動物病院の往診も頼んでいた。
猫は犬と違って、首輪や綱紐をつけられたりしていない。自由に外を歩き回っている。人間を育ててきた母親である私には、家を出てどこに行っているのかわからないことは、きっと不安で仕方ないと思う。
飼主もおおらかな気持ちの持ち主でなければ猫の飼主にはなれそうにない。
本著に紹介されているが、大佛次郎の『猫のいる日々』では、たびたび遊びに来る猫の首輪に「君ハドコノ猫デスカ」と荷札を付けると、「カドの湯屋ノ玉デス、ドウゾヨロシク」と書かれて戻ってきたという、伝書鳩のような話しもあった。
小鳥来る千の物語持ちて
(ことりくる せんのものがたり もちて)
句意は、秋になって越冬するために北国から渡り鳥がやって来るが、ガーガー鳴いているのは、きっと、自分が飛んできた国のお話を互いに聞かせ合っているのだろう、千羽の鳥たちの千の物語ですよ、となろうか。
北海道、新潟、東北などの湖には何千羽もの雁や鴨や白鳥たちが飛来してくる。何千キロもの旅である。目的地の湖や沼や川に到着したら、それはもう賑やかな話し声だろう。
「千の物語を持ちて」と、想像できるのは余程の感性も持ち主であり、素敵な詩人だと思う。
土肥あき子(どい・あきこ)は、俳人。「鹿火屋」同人。代表句は〈水温む鯨が海を選んだ日〉では、季語を空間的にも時間的にも途方もないスケールで拡大した。現在、ネットで『新増殖する俳句歳時記』を俳句鑑賞中。第一句集『鯨が海を選んだ日』、著書『あちこち草紙』未知谷刊。俳人協会幹事。