第四百五十一夜 正岡子規の「ベースボール」の句

 1936年(昭和9)2月5日は、日本職業野球連盟が設立された日で、「プロ野球の日」と定めた。7チームで初の社会人野球のリーグ戦が行われるようになった。
 太平洋戦争が始まると日本野球報告会と改名し、野球用語英語使用禁止となった。ストライクは「よし一本」、ボールは「だめ一つ」、アウトは「引け」、監督は「教師」、選手は「戦士」というふうであった。
 
 それよりずっと昔、正岡子規が第一高等中学(現在の東大)在学中にベースボールをやっていたのは、明治22年の頃で「松羅玉液(しょうらぎょくえき)」という随筆の中でベースボールを論じたのは明治29年であった。当時使われた野球用語は、今も使われているものがある。例えば、「本基(ほんき)」はホームベース、「満基(まんき)」はフルベース、「廻了(かいりょう)」はホームイン、「除外(じょがい)はアウト、という風に野球用語を考えていた。
 明治31年、子規はベースボールの歌9首作った。その中の2首を紹介する。
 「打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に」
 「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな」
 
 現代は、野球が盛んである。小学生のチーム、中学、高校、大学は学校単位で試合が行われる。そこから、さらに目指すのはプロ野球チームである。セ・リーグ、パ・リーグで各6球団、全体で12球団で日本一を争う。
 夢と希望のあるスポーツの一つである。
 
 今宵は、野球の作品を紹介してみよう。
 
  夏草やベースボールの人遠し  正岡子規 『俳句稿』
 (なつくさや ベースボールの ひととおし)

 句意は、夏草の生い茂る原っぱで草野球の試合をしている人たちを見かけましたが、今の私の身体では、草野球もキャッチボールもできません、遠い昔のことになってしまいましたよ、となろうか。
 
 碧梧桐より6歳上、虚子より7歳上の子規は、東京に出て、東京大学に入学し、夏休みには夏目漱石を伴って帰郷しては覚えたての野球をしていた。時には、碧梧桐や虚子も誘われて一緒にプレーをしたという。
 この作品は明治31年作で、この頃には結核も進んで脊椎カリエスとなり、所用のある日にはこうして外出するが、ほぼ病臥の状態であった。草野球の人たちを遠くに眺めて、懐かしく淋しく思っていたのではないだろうか。

  甲子園汗にじむ砂玉として  加古宗也 『蝸牛 新季寄せ』
 (こうしえん あせにじむすな たまとして)

 「甲子園」といえば、高校球児たちが春夏2回の全国高校野球選手権大会のことである。出場校は、北海道と東京など学校数の多い地域は2校出るなど、少しずつ変化しているが、基本は県を代表した1校の出場であるから超難関である。やっと出場できても、一度負ければ終わりとなる。

 句意は、甲子園で熱闘して負けたチームの子たちは、試合後に、汗と涙の染みた甲子園の土を丸めて、用意してきた袋に大切に詰めている。一人一人にとって汗の滲んだ甲子園の砂こそが、まさに宝石なのですよ、となろうか。

  秋ばれやバットにグローブさしてゆく さいとうあきら 『小学生の俳句歳時記』
 (あきばれや バットにグローブ さしてゆく)

 春よりも夏よりも、秋がスポーツの似合う季節のような気がしている。雨も台風もやってくるが、空は高く爽やかで湿度も少なく感じられるのが秋だ。
 
 句意は、天高く晴れ渡った日、今日は、少年野球チームの練習日だ。バットの先にグローブを差し込んで肩にかけて、四方八方から颯爽と男の子たちが集まってきましたよ、となろうか。
 
 もう40年前になるが、わが家にも少年野球チームに入っていた息子がいた。滅多に応援に行くことはなかったが、ある日見に行った。大勢のお母さんたちが見にきていた。その日、4年生の息子はピッチャーをしていたが、打たれてしまった!